2024年にはいろいろなことがあった。いろいろなことがあると、精神をたたえた心の水盤は慌ただしく波打ち、あるいは舞い上がった砂で濁り、水底を見通すことが難しくなる。水底が見えて初めて、水による光の屈折やら散乱やらが問題になるのであって、要するに、精神そのものを真に探究の対象とするためには――うまいこと言おうとして滑ってしまった感が否めない。まずはリハビリだ。無理せずにいこう。
第53節。引き続き第48節で導入された言語ゲームが考察の対象になる。復習すると、その言語ゲームは、色正方形3×3の配置を「RGB・・・」のように記号を並べて記述するというものだ。ここで記号は特定の位置の正方形の色に「対応」しているわけだが、そのような対応関係をわれわれがすぐさま理解できるのは、RやGといった記号が自然言語の色名の代理であることをすでに知っているからだ。しかし第48節のゲームを「言語ゲーム」であるというからには、慣れ親しんだ自然言語のことはいったん忘れて、並べられた色正方形と記号だけがある言語世界のことを想像しなければならない。そこには赤や緑といった色名は存在しないし、それら色名を取り囲む豊かな言語世界が広がっているわけでもなく、「対応」の概念もない。そのような世界において「Rが赤い色正方形に対応している」とはいったいいかなる事態を意味しているのか、ということをウィトゲンシュタインは問うているのだと思われる。
「記号列のN番目の記号はこの位置の色正方形の色を指しているのだ」と言ってしまうなら、「対応」に関する考察はそこで打ち切られてしまう。われわれはその記述がどのようにして意味を持つのかを探究したいのに、同語反復をもってその答えとしてしまうようなものだ。
さて言語ゲーム(48)を外側から観察している人が「Rが赤い色正方形に対応している」とみなして妥当な場合を考えてみよう。例えばこの言語ゲームを営む人たちが、どのようにそのゲームに習熟したかを観察していた場合は、そのように述べることが妥当であるかもしれない。また、記号と色正方形を並べた表があって、それがこの言語の教育において使われ、またその表が係争時における参照先になっている場合にも、そう述べることが妥当である。
ここ登場した「記号と色正方形を並べた表」は「言語ゲームの規則の表現」と呼ぶことが出来る。あくまでも表現であって「言語ゲームの規則」ではないことに注意しよう。「言語ゲームの規則とはなんなのか」という問題がここで考察されていることだ。言語ゲーム(48)はシンプルなゲームなので、規則は「記号と色正方形の対応」ということになるのだが、その「対応」という概念はゲーム中に存在しない。ただその「表現」がゲーム中に見いだされる場合はある。先の「表」はその一つの例である。またこの表は教育や係争時の参照先として使われるだけではなく、言語使用のなかで道具として使われる場合も考えられる。
もしこうした表を「言語ゲームの規則の表現」と呼ぶとするなら、我々が言語ゲームの規則と呼ぶものには、ゲームの中で、実に様々な役割を与えることができると言える。
裏を返せば、「言語ゲームの規則の表現」とされるものが「言語ゲームの規則そのもの」に対してどのような関係にあるのか、一概には決定できないということでもある。
第54節に続く。われわれは「ゲームには規則がある」と言う。それは規則(の表現=ルールブックなど)がゲーム習得の補助手段である場合や、規則(の表現)自身がゲームの道具になる場合である。また規則の表現がゲームの周辺に見いだされないような場合にも、ゲームの実践から規則を読み取ることが出来るという理由で(自然に法則が見いだされるように)規則がある、という場合もある。その場合、ゲームプレイヤーがミスした場合(規則を破ってしまった場合)にそれを区別できるのか?という問題があるけども、ウィトゲンシュタインはそれが可能な場合もあるだろう、と言う。
このように「ゲームには規則がある」という表現に妥当する状況は様々にある。おそらくだけど、第53節から一足飛びに「規則の表現があるだけであって、規則そのものなどない」と結論づけてしまうのはよろしくない、というのが54節がここに置かれている理由だろう。規則の表現と規則の間の多様な関係を観察することは、「規則のイデア」のようなプラトニズム的概念への批判を導くが、同時にイデア論の否定もまたプラトニズム的である。だがそこにはまず言葉の間の多様な関係がある!のだ。