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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

説明について

考えたこと

 文章を書いていて思うのですけど、僕はものを説明するということが壊滅的に苦手なようです。それはおそらく、自分が考えたことを自分が考えたのと違う仕方で説明することに起因しています。自分の思想は、日々の雑多な思考の集積であって、どういう風にそこに達したかというと定かではありません。もちろん多角的に検算はするから、ある程度正しいだろうという確信はあるわけですが、しかし、その思想を理解するための最適な道はまだ整備されていない。だからといって、その思想に到る要因となったあらゆる思考を並べ立てても多分僕にしか理解されないし、僕にだって理解できないかもしれないわけです。となると、やはり上手い説明を考えねばならないということになるのですが、これがほんとうに難しい。まず説明する相手の程度が定かではない。どの程度の飛躍なら埋めてもらえるのか、どの程度の知識は前提として良いのか、ちっともわからないのです。それで、僕は出来るだけ全ての論理展開を書くようにしていました。(前2文の間には、「これは説明なのだから」という意味の文を入れようかと迷いました。飛躍というのはこういうことです) しかしそうするとなると、文章の構成が非常に面倒になります。AからBへ到る理解の過程はPとかQとかいろいろのだから、そこから一つを選ぶということは、冗長さを生じるし、ある人にとってはよくわからない議論になるし、時には間違っているかもしれない。AからBが導けること自体は概ね正しくても、その過程を間違ってしまうことがありえるのです。しかも、あらゆる理屈を説明しようとなれば、それが起こる頻度も増大します。そうなると、文章としての説得力が減ってしまって、これは説明文としては致命的です。これはなんとかしなくちゃならない。
 哲学者の文章なんかを読んでいると、割と不親切で、好き勝手ものを書いては理解してみろと挑発しているように思われるものが多くあります。アレだけ面倒な議論をする場合、あの程度の不親切さがあったほうが、逆に良く分かるということもあるのでしょう。理解の仕方は一つではないのだから。もちろん、彼らが意図してそうしたのかどうかはわかりませんが、何らかの理由でそういう書き方を選んだ人たちの本が今まで残っているということはありうると思います。まあ、ひとつの物事をあらゆる仕方で説明しているタイプのものもたくさんあるので、ほんとうのところはどうか知らないです。しかし、こうも思います。A→Bを何らかの方法で埋めることが出来る、程度の理屈に、なにかしらの意味があるのかと。理屈と膏薬はどこにでもくっつくというように、ある文章を理解しようという意識が、自然でない推論にもっともらしい理屈を付与してしまうかもしれない。もちろんそれは言葉の上では正しい展開になっているのですけども、実際的な意味では、使い物になる議論ではなかったりもするのです。
 厳密さを突き詰めれば、何も言えなくなってしまいます。逆に曖昧さを突き詰めれば、あらゆることが読み出せるようなってしまって、これも何も言わない。バランスの良さが必要なのだと言われて、僕はそんなところに境界線を引く方法を知らない。
 多分、説明するということの目的を考えるべきなのでしょう。それを説得とみるか、純粋な楽しみとしての考えごととするか。あるいはただ文章を書いてみたかったのだとか。そうしてみて、何を選び、何を捨てるかを策定しなくてはならない。厳密性と説得力は両立しないし、また詩情などもそれらと反りが合わないかも知れない。全てを同時に果たせないのならば、どれかを犠牲にしたほうが良い、というのは、ある種の真理だと思います。自己満足で、それらをぎりぎりのところで満足させてみたところで、多分読者は、後に読む自分でさえも、良い論説だとは思えないだろう。それならば、どこかで突き抜けていたほうが良いのです。そういう書き方が出来るようになればなと思います。