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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

社会と自由の話

小噺

社会的自由ってなんだろうね。他者に干渉されないことかしら。干渉。では干渉ってなんだろう。意志決定に自分以外のものが関わること。でも、意志決定に自分以外のものが関わらないことなんて原理的にありえない、はず。あらゆる判断は、何かしらの対象なしには成立しないから。目の前にある林檎を食べるか食べないか。それは林檎があって初めて可能な問であって、林檎がなければそんなこと考えなかったに違いない。ということは僕の意志決定は目の前の林檎に干渉されてしまったといえるのではないかな。いやいや、林檎によって判断の必要性が生じただけだよ、食べるか食べないかは自分だけの問題じゃないかい?そうかな、その林檎を食べるかどうかは、自分の空腹とか、実はお母さんに食べちゃダメって言われてたとか、そういう根拠の中で決めることでしょう。それは十分干渉されているといっていい状況だよ。干渉という言葉の暴力的な響きが嫌いなら、影響を受けていると言い換えてもいい。個人であるところの僕は、自分自身を含めたあらゆるものに影響を受け、受け続け、これからも受けるだろう。複雑だからよく見えていないだけで、純粋に何もないところから湧いてくる意志なんてあり得ないんだ。それは僕を含む世界が自然法則に支配されているということとほとんど同義なんだけれどさ。ちょっと待った、流石にこれは暴論だし、もっと形而上学的な意志の問題に踏み込みつつある。考えたいのは社会的自由だったのだから、もうちょっと具体的なレベル、言語的なレベルと言い換えても良いけれど、そちらに話を引き戻そう。確かに、自分の意志決定は何かしらに影響を受けている。けれども、そうして決定した意志が、社会的な力によって押さえつけられる事は確かにある。そうした構図で生じる自由だってあるはずだよ。そうかな?ほんとうにそうかな。例えばだけれど、社会がもっと巧妙でさ、構成員たちを上手に説得して、誰一人社会の決定に反対しないような状況を考えてみよう。これだって社会が個人の意志決定に干渉していることの一例だよね。この場合はどうなの。みんなは自由なのか、それとも不自由なのか。さっきの話では、個人の意志決定と社会とのずれ、言ってしまえば瞬間的なギャップだよね、そこに干渉と自由が生じるのだということだけれど、じゃあもっと普遍的な干渉、生まれてから死ぬまで誰も反抗することを考えられないような社会思想の中では自由はないのかしら。ううん、そうだね。そこまでくるともはや自由という言葉の意味が喪失してしまっているかもしれない。しかし逆に言えば、まったく反対意見が出ないということは、その社会はひとつの正解に達しているといえるのではないかな。つまり、完成された社会においてはもはや自由というのは必要ないんだよ。ふうん、つまり自由っていうのは社会を進歩させるために守られるべき一つのモチベーションである、という見方だね。そうそう。なるほど、となんとなく納得は出来るんだけれど、ちょっと違和感があるよ。ううむ、うまく説明できないのだけれど、なんというのかな。個人から見た自由と、社会から見た自由の二つがあることになるよね、みたいな。前者は、自分のやりたいことが社会に干渉されないこと。後者は、社会が進歩するために、あらゆる意見が検討されること、つまり思想と意見表明の自由だよね。それらってちょっと違うし、同じように扱うことは出来ないんじゃないかな、となんとなく思うのだけれど。だから、完成された社会ではそれらが一致する、ということだよ。個人の意志と、社会的な意志とが同じ意味合いで語られるようになって、社会制度は完成するの。ええ、なにそのディストピアみたいな。人間それぞれは結構違うし、きっと反対する人は出てくるよ。まあそれはそうだね。でも限りなく正しい社会の有り様に対して反対するってことは、その原理が理解できていないってことでしょ。だからそういう人が出てきたら、その社会の理念を正確に理解している人達が教えてあげれば良いんだよ。そうすれば、反対者だって納得して成熟した社会人になってくれると思うし、教える側だって理解を深めることが出来るでしょう?だからどんな反対意見が出ても検討することに値するの。これはさっきの思想と意見表明の自由のもう一つの側面だね。なるほどねえ、本当にそんなにうまくいくのかなあ。やっぱり人によって理解可能なことには差があると思うし、経済的宗教的その他の背景だって異なるわけでしょう?そういう多様性をひっくるめた社会的自由が守られるためには、あらゆる意見や行動がすべて許される必要があるじゃない。つまり、社会的自由と個人的自由が、限りなく個人的な好き勝手に近いところで一致する必要があるよね。あーあーあー、ホントだねえ。成員の多様性と社会の進歩はトレードオフの関係にあるね、たしかにたしかに。まあいずれ多様性は抑制されてゆくと思うけれども、しかし今の段階ではもう少し緩い基準を敷いたほうが良いよね。それってなんだろう。他人を害さない限り好き勝手やって良い、程度にしておくのが良いのかな。あー、そうだね。でも害すってなんだろ。例えば、麻薬をやって社会の生産性を下げることは人を害していることになるのかな?それは微妙なところだよね。個人の幸福をどうやって計量して社会全体の幸福にまとめ上げるか、という問題に一致しそうなところ。今のところはむつかしいけど、いつかそういうことが可能なように人類は進歩するのではないかな。じゃあ今はとりあえずのところ一定のラインを法律で定めておく、くらいしかでいないってことだね。そうだね、でもいつか人類が本当に社会的な動物になったら、個人の意志決定は社会のそれに回収されて、最大多数の最大幸福が実現するんだ。世界がそうなったとき、それでもやっぱり社会の理念に納得出来ない人はどうなるのかな。さあね、死ぬんじゃないかな。