Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0408

 人生は一箱のマッチに似ている。
 重大に扱うのは莫迦々々しい。
 重大に扱わなければ危険である。

 芥川龍之介の死因は、こんな気分ではなかろうかという毎日が続きます。別に死にたくないんだけれども。生きていることをは幸福だと思うけれども。
 人生は、人はもっと瞬間的なものであるべきだと思います。たいていのつらさは、自分というものが一個の連続したものとして自分や他人に認められていることから起こるのです。けれど連続的な自分というものを認めない限り、社会と関わり文明の恩恵を受けることはむつかしい。中庸が大事なのだと思うけれど、あまりに社会化された空間で中庸を究めるのは社会を捨てるのと同じくらい大変なことになってきている。それとも案外、なんとかなってしまうものなのだろうか。
 だいぶ薄まってしまった知識への憧憬を完全に捨ててしまって、適当に働いてお金を稼げば、生活を維持するくらいは僕にだってできるでしょう。そしてときどき旅に出て、僕には決して関わることの出来ない風景を記憶に焼き付けながら、自己認識を備えた物質の渦として、自分が解けるのを待つ。そんな一生もありだと思います。一方で、そんな自分は許せないと憤る自分もいて、そんなふうにいろんな世界観が自分の中でせめぎ合っています。
 選べるということは、選ばねばならないということなのです。そして、それを選ぶことができるということは、それを選ばねばならない理由があったということなのです。僕には理由がない。僕の理由になるようなものは、それはそれは正しくて精緻で美しいものでなければならないと思っていました。この虚しさはそんな傲慢の罰なのでしょうか。

 金子先生のカオスの講義を受けてみようと思って駒場に行ってみたら休講でした。再来週からはじまるらしい。暇になってしまったので駒場書籍部でSFを幾つか立ち読みしてみたのだけれど、あんまり面白がることが出来ませんでした。イーガンの科学信仰も、結局のところは彼が作中で度々批判する旧来的な文化と同じものだと思います。そうでなければあれほど楽観的なお話は書けない、とも。その点、円城塔は適度に絶望しつつも人類(あるいは知性体)をかわいがっている感があって良いです。彼は非常に内省の能力に優れた人物だと勝手に思っています。自分を解体しかかってしまうくらいには。
 久しぶりに駒場図書館の地下に潜りました。書棚に、前に借りて結局読み通さなかった計算理論の基礎を見つけたのですこしばかり読み進めました。ポンピング補題を理解した。こうやって書かれていることを読み取って、使ってみて、体になじませてゆくという営みは、それはそれで心地よいものです。正しさとはまた別の、ゲーム的な面白さ。不平を言いつつもなんやかんや楽しそうに生きている人たちを見ていると、彼らはみなゲーマーなのかもしれないな、と思ってみたり。
 僕は定理をぎりぎりまで延ばして使う(伝われ)のが苦手です。証明とそれによって正しいことが示された命題を素直に信じることが出来なくて、その証明のプロセスと等価な心的イメージを頭のなかに展開していなくては、それを使ってはならない気分になる。記号操作の能力が低い。

 伝統として哲学科の講義は初週は全部休講なので、本郷に戻らずに家に帰りました。数理統計という機械学習寄りの講義も受けるつもりだったのだけれど、まあ初回はそんなに進まないだろうということでパス。帰宅して、久しぶりに株価の予測をして遊びました。オートエンコーダを使って一度情報の次元を下げるという方法を使うと、だいたい54.5%の精度が出せるようです。経済学的にはこういう予測はできないってことになっているらしいのですけど。