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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0831

  さよなら最高の夏。

 ある枠組みで現象を解釈したとき、そこに基本原理が見出されることがある。たとえば「生命は生きるために生きている」という原理は、生命活動を目的論的に解釈した結果だ。このような思考方法が有用であることは否定しない。ひとつの原理を立てることにより現象を体系的に解釈できることは多い。けれども、そこに見出された原理を、当の枠組みを超えて用いることには注意せねばならないと思う。「生命は生きるために生きている」からといって、僕らが生きる意味の問題から解放されるわけではないのだ。その原理は単に、「目的論的枠組みにおいて、生命である我々の行為はすべて生そのもののために行われたと解釈できる」ということを導くのに過ぎない。それは僕ら個人が構築している意味の体系とはまったく別に存在する体系であり、そこにおける原理は僕らそれぞれの行動原則としては妥当しないのである。ある人の振る舞いが完全に死を志向しているように見えて、彼自身の中では全く別のことを目的としているということはありうる。逆を言えば、「生命は生きるために生きているのだから、生きる意味など考える必要はない」と言う人というのは、彼自身の目的が、目的論的な生命の原理に一致しているだけなのだ。いわば彼は己の生きる意味を生きることそのものと定めたのである。そしてもちろん、彼がそうしたからといって僕の生きる意味の問題はなんら影響を受けない。生きる意味問題の厄介さというのはこのへんにある。

 僕は何かのために何かをするというのが苦手なのだと思います。記憶、推論、パターン認識や空間図形の把握など、それぞれ単体で見るならば結構いい線いってるぽいのに、ある目的を達成せねばならないという状況になると、それらの能力をどう使ったものか分からなくなってしまう。なにが欠けているのだろうか。困った。