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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

ある晴れた夏の日

 木田元「マッハとニーチェ」を読んでいて次のような記述に出会った。マッハが自分の若いころを振り返って書いたものらしい。

ある晴れた夏の日に……突如として、私の自我をもふくめた世界は連関しあった感覚の一集団である、ただ、自我においてはいっそう強く連関しあっているだけだ、と思えた 。

  この前後の記述を信ずるなら、彼がこの洞察に至ったのは18歳のときであり、これは僕に先行すること4年である。哲学的早熟さにおいては自分もそれなりだと思うけれど、やはり上には上がいるものだな、と思う。ただ「自我においてはいっそう強く」の部分には反論させてもらいたい。そのように見えるのはあなたが人間だからだ。この点で、彼は僕と異なる道を歩んだように見える。「マッハが思考実験と呼ぶものは、もとよりなんら実験ではない。それは結局は文法的考察である」(ウィトゲンシュタイン)。

 マッハは15歳のときにカント「プロレゴーメナ」を読んでいたく感銘を受けたという。これは三批判書が十分に理解されていないことを認識していたカントが、自分の哲学の入門として書いたものである。前から少し気になってはいたのだけれど、そろそろ僕も一度読んでみるべきかもしれない。それから、マッハ自身の著作も読んでみたい。

 思い返すと、僕が明らかな形でそのような考え方に導かれたのも、ある晴れた夏の日だった。日記を確認すると去年の6月30日であることがわかる。毎度のことながら、安田講堂横のベンチに腰掛けてのんびり考えごとをしていた。ここのところそういう豊かな時間があまり取れていない。「社会に出」てしまうと状況はもっと厳しくなるのだろう。大学に残ったほうが良いのだろうか、という考えが首をもたげるが、自分にアカデミアを満足させうるような活動ができないということもすでに十分わかっている。やはり二兆円の出現を待つほかあるまい。