Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 人間が「決断」をするのは、その選択の結末が予測できない場合であるということに気がついた。期待される効用が明白である場合には、我々は選ばない。ただ自然にそうするだけのことである。我々が選択と決断を迫られるのは、そこに勾配が見えないときだ。有限な身体に幽閉され、様々に移ろいゆく状況に日々晒され続けている僕らは、報酬が予測できない状況にあっても一定期間内になんらかの行動を選択しなくてはならない。そういう場合に僕らが用いるのが「決断」という形式であり、それを社会的に包括するのが自由意志という観念である。

 いくら検討を繰り返してもそれを否定することはできなかったということを根拠に、形而上学的概念の妥当性・一般性を主張する人がいるけれども、そういうやり方を僕は受け入れることが出来ない。そこに現れる一般性は紛い物にすぎない、と思う。帰納は分布をとがらせるだけで、その先端が世界の限界を突き破ることはない。