文章を読むと、僕の頭を使って、他人が考えて他人が納得する。そいつが出ていくとなにも残らない。そいつが頭のなかにいるうちにそいつと話をしないといけない。
理解するということは、ある状況における適切な振る舞いが分かるということで、ここでいう適切な振る舞いとは、説明ができることであったり実装できることであったり使い処が分かることであったりする。繰り返し書いていることだけれど、静的な理解、それが生じればある概念のすべてを体得したことになるような理解なんてものは存在しない。最近、そのことをようやく肌で認識できてきたような気がする。
それでは皆さん良いお年を。