Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

1014

 ランダムネスもまた言葉、観念にすぎないのだ、ということを思う。つまりそれに対応する実体がこの世界にあるわけではないということ。無意味が非意味であるのと同じように、無規則もじっさいは非規則として見出された一つの規則なのだということを考える。それは混沌ではない。むしろわれわれの認識が前提している事前分布に正確に一致しているがゆえにわれわれに意味をもたらさないだけなのだ。たぶんだけど、われわれの認識はランダムネスを仮定してそこからの距離を測るような仕組みになっている。偏りを見出すためには偏っていない状態というのを一つ定めておく必要があって、それがランダムネスなのだ。それは真の意味での〈ランダムネス〉ではない。世界の全ては互いに関係しあっているのだから。みたいな。


 高校以来の友人が亡くなったという報せを受けた。事故だそうだ。ここしばらく顔を合わせていなかったから、あまり現実感がない。ただただ虚しい気持ちだけがある。

 「また会うことができる」ということの意味を考えていた。可能性は言語的なものにすぎない。だが現実はひとつだ。そういう意味では、もう二度と会うことのない生者たちが決定論的に存在する。彼らは僕にとって死者と同じであり、彼らにとっての僕もまたそうである。違いはただ言葉の上にのみ存在する。そしてその違いこそが本質的である。


 自分の気持とは結局のところ「そう書けただけ」のものに過ぎない。自分の情動にある表現を当て嵌めてみて違和感が生じなければ、それが自分の気持ちということになる。その情動に対する〈正しい〉表現がひとつ定まっているわけではない。そう書いてみてしっくりくることだけが、それが自分の気持であるための条件なのだ。(この解釈可能性の幅のうちに、洗脳とか自己暗示といったものがあるのだろうと思う。いまだ発見されていない「しっくりくる表現」を与えること。)「自分探し」という言葉があるけれど、それは要するによい表現を探すことなのだ、と思う。

 「自分の情動」という言葉を使ったがこれは少々問題含みな表現であると思う。命名されていない感情それ自体は実体を持っているという印象を与えてしまう可能性がある。だが情動それ自体もまた解釈であると言いたい。痛みや赤さ、怒りといったものもまた実在しない。それ自身も現実に対する解釈なのである。たとえば動物が天敵を前にして抱く恐怖はその状況についてのひとつの解釈だ。痛みや赤さも同じである。言語的解釈はその特殊な形(際立って再帰的な形)にすぎない。


 最近書くことをさぼっていたせいかうまく言葉が出てこない。脳内LSTMが言葉を忘れてしまった感じがする。そういえば時系列データ解析にRNNを使っていて思ったのだけど、RNN的な構造はあんまり本質的じゃないんじゃないか。なんというか、「空を飛ぶためには羽ばたきが必要」みたいな勘違いをしている気がする。人間の脳があまり長期的に情報を保持できないからと言って、計算機に同じことをさせる必要はない。


 いかなる表現に対しても違和感を覚えること、これはひとつの才能なのではないかという気がしてきた。

1013

 紙面を線によって分割することを考えよう。言うまでもなくこれは分節化の比喩である。紙面は世界であり線は文法であって、線に囲まれた領域は観念である。さて、ある領域を囲むために引かれた線が、意図せず他の領域をも囲っているということがありうる。このことを発見するとき、人はそこに必然性の影を見出す。なるほど観念は恣意的かもしれないが、観念が観念を導く過程は、すなわち論理は、真に必然的なのではないか?というわけである。前期ウィトゲンシュタインはおそらくそのように考えていた。基底は経験的だが、操作はそうではない、というような記述が論考にはある。だが、後期ウィトゲンシュタインにとってはもはやそうではなかった。前期ウィトゲンシュタインにとって領域を囲む輪郭線があらかじめ無限の長さを持った超越的直線であったのに対し、後期ウィトゲンシュタインにとってのそれは有限長のざらざらした曲線である。そして「もし仮にその曲線を「自然に」延長したならば、この領域もまた囲われることになるだろう」というポイントに、彼は必然性概念を定位したのである。「数学的命題はひとつの道を決定する」という彼の言葉は、おそらくこのようなことを意味している。

0928

 予測という課題も実際は分類なのだ、ということに気付いた。というか、(これは妙な表現なのだがとにかく僕にはそういうことがある)、以前気付いていたことがようやく腑に落ちた。つまりこういうことである。いかに物理学とはいえ、あらゆる意味で未来を予知することは出来ない。というのもその意味での予測とは宇宙そのものであるから。物理学にできるのは、「ある現象」のその先を予測することである。すなわちある現象がある現象であるときちんと分類できてはじめて、われわれは予測を行うことができるのだ。そして現象の分類は、時間というものをたんなるもう一つの奥行きと考えれば、結局は物体の分類と同じことである。違いがあるとすればそれは分類すべきデータが「見切れている」ことだろう。例えるならば、猫の上半身の写真を見て下半身の姿を推測すること、これが予測である。

 こう考えると、予測というタスクがむつかしい理由を説明できる気がする。要は教師データの問題なのだ。人間がつくる画像分類タスク用教師データは、分類すべき対象が画像の中心に見切れることなく写っている。これは人間が容易に対象を分類できるからだが、予測の場合はそうではない。人間には出来ないことを計算機にやらせるわけだから、一定の系列と直後の情報という人間が直接知りうる情報の中から、計算機は自分一人で「対象」を見出さねばならない。これは本質的に半教師あり学習であり、また、画像認識に例えるならば、教師データの中に大量の見切れた画像や意味をなさない画像が含まれていることを意味する。さらに予測機をじっさいに運用するとなると、きれいに切り取られたわけではない時系列データの中から兆候を発見する必要があるわけで、これは要はdetectionタスクである。難しくて当たり前だという気分になる。どうにかして解決したい。

 至極当たり前のことを書いた気がしてきた。

0926

 最近また鬱っぽくなっている気がする。突発的な面倒事にまったくと言っていいほど対処できない。不調の影響を最も受けにくいのがルーチンワークであるためなかなか気付かなかったけれども、これはなんらかの対処を考えたほうが良さそうだ。ぐえー。

 自分の文章表現に限界を感じて、ヒント探しにフラニーとズーイを少し再読した。よくもまあこんなにポンポンと比喩が浮かぶものだと感動する。そりゃあ修辞には凄い労力が払われているんだろうけれども、それにしても。「望遠鏡の反対側から覗いているような」とかね。今の僕には絶対に書けないと思う。ただ少し気付いたこともあって、たとえば「~なもの・こと」という文のもの・こと部分は隠喩ポイントなのかな、とか。一度時間をつくって念入りに研究してみたいと思う。

 そうだ、「研究」というのが出来るようになりたいと思っているのだった。自分で言うのもなんだけれど、僕は観察や洞察はちょっとうまい方だと思う。つまり思考における一歩の飛距離はそれなりにあるんだけれども、しかし向きや距離を修正しながらまっすぐ歩くことは不得手なのである。まずは自分のその一歩を詳しく分析できるようにならねばと思う。いまの自分は「違和感がある/ない」くらいでしか物事や思考を評価できていない。直交するチェックポイントを複数持つ必要がある。

 そろそろ履修を考えねばと思ってインターネットで学事日程を確認したら「履修登録期間:9月中旬」と書かれていて肝を冷やした。これまでは授業が開始してから履修登録が行われていたし、他学科の日程を見てもそんな感じで、そもそも具体的な日付がそこには書かれていなかったから、たぶん何かの間違いだろうと思って本郷まで掲示板を見に行くとやっぱり29日からだった。心臓に悪いのでこういうのやめて欲しい。そもそもうちの大学はweb周りの整備がかなり遅れていると思う。なにが足を引っ張っているのかいまいちよくわからないのだが、体質的なものなんだろうか。それともやっぱ予算の問題かしら。

 久しぶりに安田講堂横のクスノキの下でぼんやりした。僕の精神は場所と強く結びついているようで、ここに来るといつも穏やかで透明な気持ちになれる。こういう場所をもっと作りたいのだけれど、条件を満たすところは少ない。とくにその場所に行くために余計な気構えが要るようではダメなのである。自宅や大学、バイト先といった生活空間から、一歩脇道に逸れるくらいの気持ちで気軽に訪れることができる場所でなくてはならない。そういう空間はきわめて貴重である。

 自分は人に比べて聴覚記憶が弱いような気がしている。記憶の中を探しても、ほとんど音声的な記憶がない。いや、メロディや声質に対する記憶力はかなり良い方なので、これは音声言語の記憶に限った問題である。ちょっと不思議。ある種の時系列データを上手く学習できてないんだと思うけど、それは何故なのやら。小さい頃からやっていた音楽にその辺の能力を全部持っていかれたのかしらん。それにしては音楽的センスは鈍いんだけど。

0925

 論理定項がこの世界に実在するかという議論において、若きウィトゲンシュタインはラッセルに対し「この部屋にサイがいないことを証明せよ」と食ってかかったという。「否定」のような論理定項が実在するなら、それを見せてみろというわけである。結局ラッセルはウィトゲンシュタインを説得できなかったようで、論理哲学論考においては論理定項は「操作」という概念に回収されている。たとえば否定は、論理空間における意味領域の反転という風に。

 否定についての私見を言わせてもらえば、「サイがいる」という認識が許されるのであれば、たとえば「サイのいない部屋がある」だって同じく許されねばならないだろうと僕は思っている。どちらも同じく直観的認識であり、あるいはひとつの宣言である。無は有の裏などでは決してない。サイの存在という認識を生み出すのとまったく同じ働きが、サイの非存在をも生み出している(ように僕には見える)。「無意味」もまた積極的な観念であると自分が言うとき、念頭にあるのはこういう考えである。


 夕方、高校の部活の同期たちと食事をしました。相変わらず言葉の通りが良くて安心する(同時に自分は相変わらず頭の回転が遅いなとも思った。遅さゆえにできることもあるのだけど)。ここ数年会っていなかったにも関わらずそれがやれる相手というのは貴重だと思う。本当に久しぶりになにかを力説した気がしている。思うに、リズム良い反論が返ってくるというのが自分が心地よく会話できる条件なんでしょう。関西出身者の傾向だろうか。振り返ってみると東京に来てからも僕は関西出身の人間と好んで付き合っている気がする。あまり気にしたことなかったけど。

0924

 記号とは対象を代替するものではなく、むしろ人間を操縦するための特殊な刺激であると捉えたほうが筋が良い気がする(これも一つの喩えだが)。少なくとも「計算は予測をしないが、君は計算によって予測をすることができる」というウィトゲンシュタインの言葉の意図は、こう考えることでよりはっきりすると思う。

 たいていの認識は正当化を必要としない。目の前に林檎があることを証明する必要がないように。正当化が求められるのは、認識枠組みそれ自体の在りようが問題になる場合である。正当化はある体系においてなにかを示すものではなく、新しい視座を提示するものであると言いたい。それはたとえば、ネッカーキューブのある頂点を指差して「ここに注目すると下から見上げた立方体に見えるよ」と教えることに似ている。

0923

 DeepMindのsynthetic gradientsを試してみようと思っていたのだけど(weightの更新にbackwardを待たなくて良いのは魅力的である。しかし本当にうまくいくのか?)、Chainerで書くのは結構面倒そうだったので勉強がてら一から小さなニューラルネットを書いてみた。今のところReLU、Conv2D、Linear、Softmax関数が実装されていて、mnistの学習ができることは確認している。10時間ほどぶっ続けで作業したわりに進捗は微妙である。もっと精神を加速していきたい。

 目的は、細かい実験を手軽に行うために必要十分な枠組みを用意しておくことである。synthetic gradientsみたいな仕組みを試してみたり、妙なoptimizerを試してみたりといったことが楽にできればと思っている。たぶんTheanoやTensorFlowといった数値計算ライブラリを使えばもっと上手くやれるんだろうけれど、僕みたいに抽象化の苦手な人間は、全体を細部まで把握していないと何が起こっているのかよくわからなくなってしまうので。


 僕の行動原理は「違和感を解消する」ことただそれだけなんだな、と悟った。自分の描いた絵に対する違和感が僕に新しい絵を描かせるし、文章も同じ。哲学的なことを考えるのも、我々のあらゆる表現形式が「私と他者の非対称性」を表現できないことに違和感を覚えていたからだ。もちろん違和感を解消することは人間の一般的動機のひとつであると思う。けれども自分はどうも、それ一本に依存しすぎているきらいがある。直接的に気にならないことが心底どうでもよいのだ。それゆえ僕は一から新しい概念を習得するということが出来ない。知らないことについては気になりようがないからだ。ただしある違和感を解消する過程において必要となった場合には、未知の概念もわりと楽に習得できる。ただしたんなる道具として。たいていの場合、その理論的背景に興味が及ぶことはない。それが十全に機能している限り、そこに違和感はないのだ。で、こういう人間はいったいどうやって人生をやってゆけばいいのだろうかと考えていた。たぶん適切な違和感と足がかりが与えられ続ければ、再発明するという形で僕は学ぶことができると思う。そうした分野が既にあると知る前から、心の哲学における幾つかの概念を知っていたように。ただしそれはあまり効率的なやり方ではないし、半ば博打のようなものである。違和感を持てない対象に対する僕の学習能力は、おそらく軽い学習障害のレベルにある。なんとかしたいとずっと思っている。しかし諦めたほうがいいのかもしれない。