今朝、「朝っぽい曲をかけて」となんとなしにGoogle Homeに頼むと、ジムノペディ第一番が流れはじめた。たしかに朝っぽいが、しかしこれはすべてが過去になったあとの朝という雰囲気である。闘いに背を向けて得た平穏、戦線復帰への助走。起承転結でいうと転にあたる朝。
ウナギという種を滅ぼすことは、ある一匹のウナギを殺すことよりも重罪なのだろうか?
今朝、「朝っぽい曲をかけて」となんとなしにGoogle Homeに頼むと、ジムノペディ第一番が流れはじめた。たしかに朝っぽいが、しかしこれはすべてが過去になったあとの朝という雰囲気である。闘いに背を向けて得た平穏、戦線復帰への助走。起承転結でいうと転にあたる朝。
ウナギという種を滅ぼすことは、ある一匹のウナギを殺すことよりも重罪なのだろうか?
ウィトゲンシュタインが試みたのはつまりこういうことだ。対象とその記述という二項対立を統合的に解消すること。それらが実は同じ階梯にあることを示すこと。呻き声が〈痛み〉を記述しているのではなく、呻き声がまさに痛みであり、記述される「痛みそのもの」と目されていたそれもまた振る舞いの一部なのだということ。内的/外的の区別が本質的なものではなく、文法的に塗り分けられた同一平面上での区分であることを明らかにすること。
文章を読むと、僕の頭を使って、他人が考えて他人が納得する。そいつが出ていくとなにも残らない。そいつが頭のなかにいるうちにそいつと話をしないといけない。
理解するということは、ある状況における適切な振る舞いが分かるということで、ここでいう適切な振る舞いとは、説明ができることであったり実装できることであったり使い処が分かることであったりする。繰り返し書いていることだけれど、静的な理解、それが生じればある概念のすべてを体得したことになるような理解なんてものは存在しない。最近、そのことをようやく肌で認識できてきたような気がする。
それでは皆さん良いお年を。
人間が「決断」をするのは、その選択の結末が予測できない場合であるということに気がついた。期待される効用が明白である場合には、我々は選ばない。ただ自然にそうするだけのことである。我々が選択と決断を迫られるのは、そこに勾配が見えないときだ。有限な身体に幽閉され、様々に移ろいゆく状況に日々晒され続けている僕らは、報酬が予測できない状況にあっても一定期間内になんらかの行動を選択しなくてはならない。そういう場合に僕らが用いるのが「決断」という形式であり、それを社会的に包括するのが自由意志という観念である。
いくら検討を繰り返してもそれを否定することはできなかったということを根拠に、形而上学的概念の妥当性・一般性を主張する人がいるけれども、そういうやり方を僕は受け入れることが出来ない。そこに現れる一般性は紛い物にすぎない、と思う。帰納は分布をとがらせるだけで、その先端が世界の限界を突き破ることはない。
コミュニケーション能力を軽んじる人たち、コミュニケーションしないならそれはそれでべつに良いと思うんだけど、そういう人たちはたいてい話をすること自体は非常に好きで、延々と自分の好きな話題を喋り続けていたりする。コミュニケーションしないでほしい。これは反省も込めてなのですが。