Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

めもめもにゃんこ0112

 僕以外による認識は全て幻であり、僕の認識こそが真に実感を伴った経験である、という独我論が考えられます。これは他者の帰納的な意味での意識を否定しているわけではないから、それぞれの他者について、同様の独我論が考えられるよね、という風なことが言える、ように思います。彼らの独我論からしてみれば、僕も一つの現象であり、僕の認識は実感を伴わない幻であるということが言えてしまう、つまり、私しか真の認識の主体は存在しないと言う考えが、あらゆる他者において考えられうるというその対称性、僕の独我論との等価性は、一度考えてみるべきことだと思うのです。この、自分とそれ以外という構図が成立しうるということが、独我論という考え方において明らかにすべきことの本質だと思うから。
 まず、他者とはなんだろうかということを考えねばなりません。前に書いたように、他者を自分が見るところの知性に限定するのは、知性を世界から独立したものとするという誤りを犯しているわけですけども、今回用いるところの他者の概念は、自分と外の境界について自覚的であるものとすれば十分であるよう思います。自覚的であるとはどういうことかというのは考えられる必要はあります。
 ここでそのような他者を用いることには理由があって、僕は沢山の物質の組み合わせによってなっていますが、ここで言う僕は、今のところ一つしかないよう思われる、そう思い込むような仕組みがあるだろう、と考えられることによります。
 ところで、人の脳が物質的に行う情報処理というものは、物質的であるがゆえに形式的で、形式的であるということは、そのままではそこに意味など無いわけで(対応はあるだろう)、それは解釈されねばならない。自覚的であるということは、その解釈を、自身の形式的な情報処理が行わねばならず、例えて言うなら、暗号Aの解読の仕方が、暗号Aによって書かれている、というような構図になる、ように思います。ここに、内側に綴じ込んだ黄金の鍵があるとか、時間的な繰り返しが何かを可能にしているというSFじみた想像は出来るけども、あまり意味があるようには思えません。
 こうすることによって、神の視点(僕が最終的に意図している意識)が、その情報処理の意味論とでも言うものに宿りさえすれば、そこに独我論的な構造を幻視することは可能ではないか、というのが、今日考えていたことです。
 感覚的に書くとこうなります。意識は、その再帰的な性質によって宙に浮いている。自分で自分を解釈するという事の連鎖は、その連鎖の内側でのみ何らかの意味を持ち(意味というのがそれである)、外側からは隔絶されている。それ故、それは一つの独我であり得る、と。