Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 授業の関係で教育心理学の先生とお話をする機会があったので聞いてみたこと。「納得した」という気持ちは、学習対象を、自分が正しいと信じている概念の組み合わせで説明できたときに感覚するものらしく、理解することとはまた別の現象である、とのこと。まあ当たり前っぽい感じはある。それから、人が物事を深く掘り下げて理解してゆくためには、適切に問を立てることが大事で、さらにそういった問を立てるためには、予め何らかのモデルを把握しておく必要があるということ。その動機付けとなっているのは好奇心であり、同時に好奇心は学習の成果として現れてくるものである。こういった一連の要素をだいたい包含している営みに対話があるらしい。僕には(特に興味のある分野について)あんまり話し相手がいないので自分を分割して会議するしかない。p-prim理論は僕の考えにそれなりに近い?あと問いを立てるためには「調度よい具合に知らないこと」が大切ぽい。聞いたり読んだりすればなんとかなる状況では結果として人はなにも理解しないことが多いのだとか。とかとか。んー、こういう話を聞いていると自分が幼稚園小学生の頃にやっていた工作とか実験とかかなり理想的だったんじゃないの、みたいなこと思います。いろんなことを試してみては、モデルを組み立て、失敗したら修正し、ということをそれなりに素朴にやっていた。それが高校大学であんまり通用しなかったのは普通に教育とその評価の仕方が残念だったからなのでは、とか考える。というかそういうことを学習の研究に関するプロが言っているのを聞くと少し安心する。安心はするけど現状はどうしようもない。社会に適応するためにはもっと考えるか考えるのをやめるかする必要があります。とか書いちゃうの防衛ぽい。ああ、そうそう。問いを立てる動機付けとしてはひたすら一般化することを考えておくのが良いのでは、みたいな話も聞きました。人間の頭はより適用範囲の広い理屈を採用したがる傾向もあるらしいし。

 あんまり整理されていないことを書き連ねたら読めるようなものではなくなってしまいました。僕は物事を筋道建ててまとめるのがそんなに上手じゃないぽいです。今日のグループワークでは僕がみんなの意見を取りまとめたのだけれどそっちもうまくやることができなかった。まあ議論の内容自体が蛇みたいにのたくっていてそもそも綺麗にまとまるようなものでなかったというのもあるけれど。要練習。

 文章が雑すぎて気持ち悪いですが明日は1限に出るつもりだし体調もあんまり良くないのでさっさと眠ります。しかし最近は寒いなあ。