Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 自分が自分とは違う何かに影響を受けつつあることを認識することは、悪い気分ではありません。僕が何かをやっていないということは、選択などではなく、ただ単にそういったやり方に気づいていなかったということだから。ところで、自己の変革には、もともと自分が持っている要素のパラメタの変化から、全体的な思考の枠組みの変化まで様々なレベルがあるのだけれど、それらが全て同じ仕方で扱えることは、人の知性のよい点だと思います。
 毛細血管の隅々まで血液が染み渡っているのと同じように、意識が神経の全てに染み渡っているような人格に憧れます。一挙手一投足が意識の支配下にある、あるいは、一挙手一投足が統合されて一つの意識を組み立てている、そういう人間は格好良いなと思います。観念的な話としてだけではなく、立ち振舞から。じっと考えて、それから厳かに決断を下すのです。僕の知性は、選択とか決断とかする場面になるとてんで役に立ちません。連想的に可能性を探索することはできるけれども、選択の際には、より直感的な判断が優先されています。これはおそらく、言葉との付き合い方の問題なのだろうと思っています。人それぞれ歩き方に違いがあるように、言葉の使い方にも各人特有の癖があります。それは語彙の選択といった表面的なものではなく、どのような場面で言葉に頼るかというレベルの違いです。あらゆる精神活動に言語が付随する人もいれば、僕のように、時々、明らかな思考や他人との意思疎通をするときに言葉を使うだけの人もいます。この差は特にその人の振る舞いにおいて顕著です。例えば僕でも、あえて前者のようにあらゆる思考を記号化すると、途端に客観的な視点を獲得して、より微細に自分を制御できているような気分になってきます。自動化されていた脳の働きが、経験的な評価軸によって再評価されるような感じです。こんな風に、言葉というのはメタ的なものでありつつ、自分に影響をおよぼすことができるので、社会、つまりは他者と関係するときに、我をどこまで通すかということを制御できます。前頭葉の働きが社会性と密接に関係しているということを、僕はそんな風に認識しています。ところで、僕は自分の強みは、そのような言語的な自己統制とは対極の、没我的な集中力にあるとも考えてきました。やりたいことだけを延々とやり続けられることによる、偏った能力の発達によって、他の部分を補って有り余ると思っていたのです。しかし、その方法は高校辺りで破綻しはじめ、大学入学後に完全に崩壊しました。興味のないことの比重が限界を上回ったというのがその理由です。失敗を繰り返して、新たに興味を覚えることにすら恐怖感を感じるようになって、完全に詰んでしまったように思いました。今のままでは、僕は何も学ばないまま社会に放り出されてしまう。そう考えた僕は、前記のような、言語の社会性を鍛えようと試みることにしたのです。瞑想とか。これはある程度成功して、サークルや授業へのとりあえずの参加など、今まではちょっとした気分の変調で放り投げてしまっていたことに対し、変調の大元を断つような形で、解決を与えました。ところが、すぐに気がついたのですが、このやり方は、僕が最も強みとする性質と相性が悪い。例えば勉強をしながら、言語的に考え続けるということがどうしてもできないのです。いつの間にか教科書を絵的に眺め続けているか、表面的に文面を内声で音読するかのいづれかになり、僕の言語と理解の間にある懸絶を提示して終わってしまう。このような状態が半年近くも続き、これまでより一層何も学べない状態に陥りました。そんなこんなで、僕はもうだめだとほぼ諦めていだのですが、しかし最近、ちょっと何かを掴みかけている気がしています。それがもう少し明確になってきたら、もう一度文章にするつもりです。

 応用数学XCを受けたのち、サークルオリエンテーション。文系の学生は勧誘の断り方がえげつないです。心が折れる
 また高校の後輩(以降Cと呼びます)に会ったので、彼としばらく話をしていました。彼は、自分の能力を上げることに関して天才的な才覚を持っているので(昔は特にゲーム方面で顕著でした)、彼のやりようを真似てみるのは良いかもしれません。スペック的に及ばない可能性はある。

 思いの外疲れてしまって、帰宅してしばらく眠りました。家から送ってきたカレーを食べて、履修の検討をしています。自分の能力から見て、あんまり沢山とるのは賢明ではなく、できるだけ絞って受講しようと思います。今学期の様子を見て、来学期以降の身の振り方を決めよう。