Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0410

 なにかを書きたい気分なのでなにか書く。なにか。そういう冗談はいいですか、そうですか。
 散々繰り返し書いている気がする文句をまた繰り返すことになるけど、僕は、なにか書きたいことがあって文章を書く、ということはあまりしてない。書かねばならないことを書くことは、僕にとっては文章を書くことに当たらない。つまり僕は文章を書くという行為に特別な意味を見出しちゃっているわけだ。ちなみにいま、手癖で「わけで、」まで書きその後を繋げようとして、なんにも思いつかなかったのでやめた。文章は完結に書きましょう。明晰にしうることはできるだけ明晰に。明晰にできないことは、思考の皮を被った嘘だということを、僕は何度も思い知らされてきた。
 僕が創作(少し違和感のある言葉)を試みる動機は、これもまた何度も言い訳として使ってきた台詞だけど、自分に創作することができることを確認するためだ。自分を認めてやるためには、自分がいつだって絵を描いたり、文章を書いたりできることを、自分自身に示さなくてはならない、難儀な生き物なのだ。僕は。そしてもちろん、そんなものがうまくいくわけがなくて、自尊感情はちっとも盛り上がらない。自分の頭を、自分のものではない自分の手で撫でてやろうというまったく勝算のない努力をずっとずっとやっている。満足感は太陽に背中を向けたときの影みたいに、追いかけた分だけ逃げてゆく。
 僕が求めているのは多分こういうことだ。自分が見て読んで心地よく感じられるものを機械的に生成する文法を発見すること。これが僕にとっての、創作することが出来るということの意味。それによって作られたものは必ずしも求めてはいない。求めてはいないんだけど、そうする他にそんなものがあることを確認する手立てが存在しないから、仕方なく文を書き、絵を描く。そんなこんなしながら、4年くらいになる。
 読み返したら言っていることが滅茶苦茶だ。相反する手癖が喧嘩している。普遍的な良さを探している僕の方は、全然普遍的じゃない。幸せの青い鳥を探す幸せの青い鳥は、物語の最後で自分が幸せの青い鳥であることを知る。
 そうそう、もう少しのびやかに連想を広げられるようになれたらね、ということを時々思うのだった。せっかくだから練習してみようと頭を振り絞ってみたのだけれど、振り絞ったのが良くなかったのか何も湧いてこない。連想は湧いてくるものだからかな。絞っても出てこないけど放っておけば自然に湧いてくるものが心の世界にはあるのかも知れない。よく知らない。
 とりあえずお風呂に入ろう。心を洗濯すれば、詰まりが取れていろいろと沸き上がってくるかもと期待。
 お風呂から上がりました。身体は温まったけども頭は温まらない。あれ、頭は冷えていたほうがいいんだっけ。えっと、そうだ、連想の話。いろんな事をのびやかにとりとめもなく考えるためには、心の枷を外してやらねばならないだろうと思う。こういう前提で考えれば、自ずとこういう結論になるよね、みたいな、心を拘束しての思考は、面白いこともあるけど、あんまり面白味はない。気がする。単に僕が、自分の心のなかを広く見渡す能力を持たないということなのかもしれない。
 お酒を飲みました。カルーアミルク。僕が一番好きなアルコール飲料かも。甘くて美味しい。僕の内にカルーアを置いていった誰かさん(誰だったっけな)に感謝。
 昔の僕は、もうちょっと自由に取り留めもなく考えることができていたように記憶している。小学生の時とか、頭のなかには突拍子もない妄想が溢れていて、ふと気を抜けばそちらに没入して現実がおろそかになっていた。いったいいつから、寝る前に空想しなくなったのだろう。気がついた時には、床につくと自動で眠りにつくようなってしまっている。大人になって心の制御が上手になったということなのかしら、でも今だって僕は怒りっぽいし打たれ弱いよな。単にそうなったという以上の意味は無いのかもしれない。いやいや意味ってなんだよ、意味って。
 いずれにせよ、自分の心をもっとうまく扱えるようになりたいです。どの程度自分で管理するかということも含めて。
 それから、適切な文章の長さについて。短くて分かりやすい文章をとんとんと並べてゆくのは頭良さ気な感じがあって好ましいけれど、読んでいて心地良いかというとそうでもないよな、とか。いや、僕にとってはという話だから、これを読んでいる人にとってどうかは知らないけど、少なくとも僕にはそう。ちょっとだらだら長くて、読んでいる途中で文頭がどうだったか忘れちゃうくらいににょろりと進む文章のほうが、それっぽくはある。スパイスとして、かすかな幼稚さを文面に匂わせると風味が増します。
 今気づいたこと。僕は、僕は僕はって言いすぎ。日本語に主語って似合わないのね。主語というか、一人称?僕は、私は、俺は。高校生の英文和訳みたいになってしまう。僕は。Twitterのせいかもしれない。予防線として、一番使いやすい種類のものだからね。あと、〜〜ということ、という形も多用しすぎているな。使いやすいというか、それしか知らないというか。一度禁止してみるといいかもしれない。
 考えながら書くことが苦手なので、少し考えたいことが浮かんできたのだけれど流れてしまった。
 僕は断言することについて気後れする傾向があります。
 酔いが回ってきたのでこのへんにしておこうかな。結構楽しかった。ああそうそう、僕は常にあることを気に留め続けなければならない状況を我慢ならないことだと感じているようだ、ということ。あることに気づいたなら、それによって、それ以降の自分の振る舞いは決定的に変わって欲しいと感じているようです。ちょっとずつ変えてゆくといった恒常的な集中が必要であるということを考えると、気が遠くなってしまうのだ。まずはその気持を、ちょっとずつ変えてゆかねばならないのだろうな。