Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0516

 自動車学校へ行って学科教習を受けました。普通自動車の規定について、見せられた映像と教本の記述との間に違いがあり混乱したり。終わってから調べてみたところ、映像の情報は古いもので、教本のほうが正しい模様(そりゃそうか)。こういうのきちんとして欲しいものですね。せめて一言欲しい。なんというか馬鹿にされている気がする(僕は出てきた数字全部覚えてるんですからね!)。それから、旅客輸送の定義を教えずに(しかも探した限りでは教本にもきちんと載っていない)それに関するひっかけ問題を出されて非常にいらいらするなど。ううむ。僕がゲーデルでなくてよかった。

 BHK解釈というのを知りました。「証明とはその具体的証拠の構成のことである,というような立場から論理式あるいは数学的主張の意味を解釈すること」らしい。非常に自然な考えのように思われるので、少し詳しく知りたいと思う。知ったところでどうなるのだと僕の一部がささやいている。

 自分を直視しない(できない)ことは生きる上で重要なことかも知れないとか考えたり。

 五月祭でボヤ騒ぎがあって構内で火気の使用が禁じられたという話をTwitterで知りなんだそれとなりました。それからボヤを起こした当のサークルにばかり批難を向ける雰囲気にも気分が悪くなった。人間という自然現象は、現在のような行き過ぎた規準において責任を負うことが出来るほど精緻な構造物ではないと僕は思う。ミスはどうしたって起こるのだ。そういう曖昧さを考慮に入れずに、極端な反応を返したり、責任の大元を設定してやり玉に上げるってのは、全然良いやり方ではないと思う。世の中を息苦しくするだけじゃないかと思う。同時にそういう風潮それ自体も自然現象の一部であるというあたりにどうしようもなさがある。僕は嵐の前に怯える一本の芦です。