Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0829

 たとえ未来の僕が<私>とは関係のないものであったとしても、他者を愛するのと同じように、彼を愛することもできるのだということに気が付きました。もちろんこれは執着であって、信仰の一つの形態に過ぎません。でも少なくとも「私」を必要としない信仰です。そして「私」が滅尽された後にある信仰は本来的に利他的なものとならざるを得ない。仏教における慈悲の概念は、そういうものを指しているのではないか。そんなことを考えました。
 ただそう考えてみたところで「利」とはなにかという問題は残ってしまいます。今の僕には、誰かのために何かするというのはむつかしいです。だってそれが"本当に"相手のためになるかわからないから。他人の心が不可知であるかぎり、本当の利他というのはありえないように思えます。たぶん、「私」と同時に「他者」というものも消え去ってしまうというところにポイントがあるのでしょう。でもまだ僕にはそれはわからない。わかるようになると良いと思う。
 仏陀が死ななかったのはきっと慈悲深かったからなのでしょう。彼の慈悲とは、人を悟りに至らせることだったのだろうか。

 自動車学校にゆきました。「駐車中の車の窓ガラスを通して子供が走ってくるのが見えますね」とか当たり前のように言われてもそこまで注意するの無理では…という感じです。慣れればなんとかなるものなのかな。

 ある視座に立って語り始めるのだけれど、言葉を展開しているうちに当の視座を導入した意味合いが解体されてしまい、結局のところどっちだって同じことだとなって考えが終ってしまうことがよくある。知らず知らずのうちに語り得ない領域に足を踏み入れてしまっていたということだろうか。