私というものも一つの相貌にすぎないわけです。
生と死の区分けも畢竟恣意的なものなのであって、それ自体に独立の意味を問えるようなものではないのだ。生の意味を問うことは、われわれが林檎を林檎として分節していることに意味を問うようなものである。
観念に対応する実在などない。観念に対応するのはその使用法である。もちろん、使用法という観念を境界付けるものもまたその使用法であるというところに、一つの断絶がある。
生もまた、何らかの意味において「役に立つ」観念であるに過ぎない。
生きることに意味があるから、人生の出来事が意味を持つわけではない。逆もまた。