Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0401

 「選言は絵に描くことができない」と言っている人を見かけて興味深い視点だと思った。「林檎がありかつ蜜柑がある」という状況は林檎と蜜柑を一緒に描けば伝わるが、「林檎または蜜柑がある」という状況はどう描いたものかよくわからない。「林檎がある」「蜜柑がある」「林檎と蜜柑がある」を別々に描けばよいだろうか。とすると今度はこれら3つの絵の関係をまた別に記述せねばならない感じがしてくるわけで、以下同じ話を繰り返すことになる。このことについて考えていて気付いたのは、僕はどうやら「選言がそれ自体としてひとつの事実である」という風には認識できていないようだ、ということだ。なんというか、「P∨Q」という命題を、{P, Q, P∧Q}に与えられた冗長な名前だと思っているふしがある。むかし記号論理学の講義を受けたとき、不条理則の証明を直観的に理解できずに困った記憶があるけれど、理由はこれだろう。不条理則の証明ではPからP∨Qを導き、これと¬Pから(任意の命題)Qを導くわけだけど、ここで出てくる「P∨Q」は僕の中では「P」の別名に過ぎなかったわけである。P∨Qと¬PからQを導くという選言三段論法が成立するためには、「P∨Q」が”実態としては”{Q, P∧Q}に与えられた名前でなくてはならない、ように感じたのだ。この感覚は未だに払拭されていない。僕にはP∨Qが見えないのだ。

 もちろん「これは形式的体系だから」と言えばそれまでなのだろう。講義でも、「これらは(日常的な)意味を抜き取られた記号的体系であり、日常的直観に惑わされてはならない」と教わった。しかし裏を返せばそれは、形式的体系はもはや日常生活においては意味を成さないということでもある、と思う。それで良いんだろうか、と思わないでもない。


 われわれはわれわれの「自然さ」に基づいて思考している。そして「この自然さを限りなく延長したならば」というかたちで思考不可能な事態について言及しようとしたのが形而上学である、と僕は考えている。だからそれは別に超越についての言明などではない。ウィトゲンシュタインが「無限は限りなく大きな数などではなく、ひとつの規則である」と述べたのと同じ意味で、形而上学は超越について語るものではなく、「自然さ」に基づいた世界観の「超越論的補完」であり、ひとつの(形而下の)規則である、と思う。もちろんこの考えもまた補完された世界観空間上の点にほかならないわけだけれども。ということもまた。

 というような話を昨日ある人にしたところ、「そう考えることにプラグマティックな意味はあるのか」と聞かれた。むしろプラグマティックな意味しかない、というのが僕の答えだ。そう考えることによって、こういう考えに自然さを感じることによって、僕は「ほんとうの」へのこだわりを抑えることができている。もちろん完全に抑えられているわけではないけれども、先の喩えを使うならば「補完すべき点」を出来るだけ一点に集めることによって、そうした自分の傾向性を管理しやすくしている。ただひたすらにプラグマティックに生きることを正当化しているとも言えるかもしれない。喩えて言うといまの自分はひとつのヤジロベエである。無限に小さな神秘に支えられながら、形而下でバランスを取っている。いつ転ぶか知らない。

 なんだかこう書いてしまうと虚しい気持ちになってきますね。僕はなにをやっているのか。なにもやっていないのだ。そしてこれからもずっと。