Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 世界の縁でランダムウォーク

 たとえばx>0という条件が与えられたときに「ああxは-1ではないんだな」と思うためには、単なる論理的思考とは別の飛躍――つまり「x=-1となることがあるか?」という問いを立てること――が必要になる。思考においてもっとも重要なステップがここにあると思う。たしかにx>0という条件は多くの情報を含んでいるのだが、そのままだと静的に過ぎて次の方向を指し示してはくれないのだ。ウィトゲンシュタインの言葉を借りるなら、そこには摩擦がない。だから人がその上を歩いていくためには、ルールからは導くことの出来ない恣意的な摩擦、偏り、個別化、静かな水面を波立たせる意志の力が必要になる。与えられた推論過程に納得するだけでは何もわかったことにならない。ルールは世界の限界を定めるだけで、世界の中でどのように歩いていけばよいかを教えてくれるわけではないのだ。僕らは決断を――つまり問いを立てることを――しなくてはならない。そして筋の良い問いを立てるには、特定の仕方で訓練されねばならない。その訓練は言葉の外側でなされる。もちろん問いの建て方をある程度言語的に定式化することは出来るだろう。それが知識を体系化するということである。けれどもその最終層においては、やはりなんらかの飛躍が必要になると思う。その飛躍は、思いつこうと思って思いつけるものでは決してない。それはわれわれの祈りに対して天が与える言語を超えた霊感である。そういうわけで、知性とは幸運を手繰り寄せる能力であると僕は思っている。グッドラック。