Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 25歳になって2日が経ちましたがとくに変わりはありません。自分が生まれて四半世紀が経ったのだと思うとちょっと変な気がする。昨日の続きを毎日やり続けていただけなのにこんなに遠くへ来てしまった。
 ところで四半世紀っていうと4と2分の1世紀っぽくて毎回もにょります。あるいは16分の1世紀。

 知性とはなにかという問いは、知性という概念の統合性が砕け散り、知性がそれらの破片の単なる集積にすぎないことが明らかになったときに解決されたことになるだろう。知性はこの宇宙のすべてを理解しうるだけの十分な能力を備えた黄金のシステムなどではない。知性はただその能力の限りにおいて宇宙を構造化し利用可能にするための道具にすぎない。金魚から見た宇宙は、金魚の能力によって理解し尽くすことの出来る程度の構造しか持たない。人間にとっての宇宙もまたそのようなものである。宇宙に境界を引いてある系を切り出したとき、その系から見た外の世界の複雑さは、その系自身の複雑さを超えることはないのだ。その系がとることの出来る状態数が、その系から見た外の世界の状態数の上限である。われわれは金魚鉢の中に生きている。
 統計学者の渡辺先生が、「自然のエントロピーと情報のエントロピーは実は同じものだった」と書いていた*1が、先のように考えればこれは当然であるように思える。自然に構造を与えているのはわれわれの状態なのだから。そして自然と情報の等価性が示されつつあるということは、われわれの知性がその限界に達しつつあることを意味するのではないかと僕はぼんやり思っている。金魚鉢はもういっぱいなのかもしれない。

 〈本質〉への接近欲求を原動力としながら〈本質〉から自由になることによって人類は前進してきたのではないか。

*1:http://watanabe-www.math.dis.titech.ac.jp/users/swatanab/ibis20171110.pdf
この資料の結論の図が人類の墓標にしか見えない