Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0713

 僕が考えた駄洒落の中でたぶん最も雑なもの。「沖縄はおっきいなあ、わあ!」。はい。

 「存在と時間」を読んでいます。予想していたほど理解できない感じではない。言いたいこと・問題意識はなんとなく分かる。ただ僕の中の早合点メタツッコミエンジンはすでに「結局それは『問うこと』の神秘性にすべてを依存したお話にすぎないのではないか」との疑問を呈していて、ほんとのところがどうなのかはまだわからない。複雑な観念を伝えるために蛇行しながら収束してゆく構成をもつ本は多くあり、現時点で僕が抱いている印象が、その一方の極に対するものにすぎない可能性はおおいにある。

 長く読まれ続ける思想には、その内容云々以前にまず、凄まじい量の気持ちが含まれている。文体。

 平等の問題に対し機会均等でもって答えるのであればまず万人にハングリー精神を植え付けるべきでしょう、みたいなことを思ってる。でもほとんどの人はそこに突っ込まないから、機会均等という言葉はそれなりの説得力をもち、その影で望む力の弱い人達は割りを食うことになる。この手の”スマートなしわ寄せ”はなにも平等の話に限らない。社会は昔よりもスマートになったけれど、優しくなったわけではない。

 人は自分の理解力を通してしか自分の理解力を評価できないから、知性というものを汎用的で普遍的なものだと見なしがちだけれど、実際のところ知性は特定の問題に特化したシステムである。未知の領域でものを考えたり、自分の思考が手癖に流されているのを意識するとき、そのことを強く感じる。考えたいことを考えることは脳にはできない。ただ脳において考えが生じているだけだ。そこに私という乗り手は存在しない。目的地も同じく。われわれにできるのはただ坂道を降ることだけである。ただしここでいう勾配降下のプロセスは、言語ゲームを支える自然の中で起こっていることであり、だからそれについて言語ゲームの内側で語ることにさしたる意味はない。梯子はすでに落とされている。

 生まれ変わったら現実逃避に部屋の掃除ができる人間になりたい。マジで。