Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0723

 すぐ日記をサボってしまって良くないです。僕がまとまった文を書くためにはそれなりの精神的助走が必要で、仕事をしてるとその余裕がなくなってしまう。小話のネタとか、やってみたいこととかそれなりに堆積してはいるのだけれど。このままだと化石になっちゃうなあ。

 そうそう、Raspberry Piと各種センサを買ってきて室温を制御することを考えています。どうもうちのクーラーは効きすぎるきらいがある。かといって使わないのはそれはそれで身体に悪い。なので適当なルールに従ってクーラーをつけたり消したりできたらいいな、とか。ちょっとした勉強にもなりそうだし。

 同僚が会社の広報ブログに書くとか言って社員にアイオワギャンブリング課題なるものを実施していた。僕も受けたのだけどわりと異常なスコアが出たらしく「異常だ」と言われた。損失回避の傾向が高いらしい?たまには意識的にリスク取ったほうがいいのかもしれない。

 計算規則が定まった時点で、その帰結としての計算結果はすべて一挙に決定している、という描像をウィトゲンシュタインは批判している。論理と規則は実在論的な意味でこの世界に在るのではなく、歩いたり食べたりするのと同じく、人類の進化史におけるひとつの産物なのだと。かといって定義された時点でその全体が決定されていない計算というものを想像するのはむつかしい。で、いろいろ考えていたのだけど、こういうのはどうだろう。9割の確率で1+1=2と答える人がいたとする。この人が10回1+1を計算して、最も多かった答えを1+1の解答として採用するとすれば、それが2となる確率は0.9999くらいになる。なにが言いたいかというと、そこに偏りがある限り、試行回数を繰り返すことによっていくらでもその偏りを増強することが可能であり、その極限として規則というツルツルしたものが見出されているのではないか、ということである。この宇宙のすべてを燃料にくべても計算できないもの、そんなものは(物理的なシステムとして記述可能な規則の帰結としては)存在しないのだ。無限の長さの定規が存在しないのとまったく同じ意味で、無限に大きな自然数など存在しない。もちろん無限に意味がないと言いたいわけではない。それはまたべつのルールの中で意味を持っている。ただしそれは、無限に大きい数などではない。

 「無限論の教室」を読み返していた。あとがきにウィトゲンシュタインを背景にしているとあるが、全然そんなことないと思う。べつにウィトゲンシュタインは可能無限派ではない(と僕は認識している)。ある規則があって、それに人間が”自然に”従うことができるという意味では、実無限だって可能無限と同じ程度には存在すると彼なら言うだろう。

 幸福は結末にだけ許されているのかもしれない?