Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0513

 私というものも一つの相貌にすぎないわけです。

 生と死の区分けも畢竟恣意的なものなのであって、それ自体に独立の意味を問えるようなものではないのだ。生の意味を問うことは、われわれが林檎を林檎として分節していることに意味を問うようなものである。

 観念に対応する実在などない。観念に対応するのはその使用法である。もちろん、使用法という観念を境界付けるものもまたその使用法であるというところに、一つの断絶がある。

 生もまた、何らかの意味において「役に立つ」観念であるに過ぎない。

 生きることに意味があるから、人生の出来事が意味を持つわけではない。逆もまた。

0505

 今度こそlojbanを習得しようと思ってはじめてのロジバン 第2版を読んでいます。今ようやく半分くらい。この調子だとけっこうすんなり文法と基本語彙は覚えられそうだけれど、経験上僕は毎回この辺で急激にやる気をなくすので油断してはいけない。あといくら習得が容易だからといって、これを思考の道具として扱えるようになるためにはやっぱりかなりの修練を要しそうな気がする。言語習得において取っ掛かりやすさというのはあまり重要なファクターではないのではないか。

 そういやトキポナなんていう言語があるんですね。語彙が123個しかないのだとか。

0503

 思い在り、ゆえに思い在り。

 GWは多摩六都科学館というところへプラネタリウムを見にゆきたいと考えていたのですが、生活リズムが完全に崩壊していていまだ行けていません。ということはそれほど行きたい気持ちが強くないということでもあって、それならそれで良いのかもしれない。僕は衝動性が高いけれども、行動に移るのに要する活力の閾値も同じくらい高く設定されているようです。体力と衝動性の均衡点としての腰の重さ。心がもう少し落ち着けば、その閾値ももう少し下がるかもしれない。あるいはもっと体力が増せば。

 非意味(無意味ではなく)に慣れてしまって良いものなのか。たしかに精神はかなり安定するけれども、それはかつての僕が持っていて僕をここまで導いたあの偏執的な動機付けを失うということでもある。それはもう役目を終えてしまったのだろうか?非意味を自明視する僕の一部分は、このようなことを問うことすらもはやナンセンスであるとみなしはじめている。私などない、つまりそのような動機や思惟もまた〈私〉を本質的に規定するものではなく、連続する世界の部分でしかないのだと考える立場では、自ずとそうなる。しかしまた別の一部分は、非意味を基礎に立てたこれら論証もまた、非意味一派が退けようとした命題的思考にほかならないとしてこれを批判する。もちろんこの批判も命題的思考にすぎないが、この批判が批判として機能しているよう見えるかぎり、非意味派の主張もわれわれの批判と同次元にあるものなのだ、というのが彼らの言い分である。これに対して非意味派は、いやいやたしかに僕は〈非意味〉を直視したのであり、そのこと自体はなんら命題的事態ではないのだ、という反論をするのだけれど、これは少し苦しい。問題は、もし自分がなんらかの意味で〈非意味〉を直観したのだとしても、それそのものは僕の現実の行動になんら影響を与えないということである。もしそれが現実の行動を規定するのであれば、僕の営みが「僕」の「営み」である以上、〈非意味〉は結局「非意味」に、一つの生きる技術へと成り下がる。だからいま僕の精神はそれなりに安定しているわけだが、ここには重大な火種が潜んでいる。というのも、いかなる認識も、それが現実に反映される限りにおいて、「」付きの概念に転化してしまうという認識これこそが、僕に〈非意味〉を理解させた当のものだからだ。死ぬことすら生のプロセスの帰結として解釈できてしまうこと、無意味もまた一つの観念にすぎないこと。それらが強く実感されるようになったことが、僕に〈非意味〉を自明視させているのだ。それゆえ「〈非意味〉の自覚によって心が安定した」というこの状態そのものが、〈非意味〉を「非意味」へと失墜させる〈非意味〉なプロセスにほかならないということになってしまう。この地点において自分はずっと燻り続けている。プラトー。ダイナミズムとしての非意味。それはそれで良いのかもしれないけれど。

 結局のところはこれも「良さ」の話なのかもしれない。

 文を生成する際、自分は修飾の順序にかなり無頓着であることを自覚した。無時間的に考えたそれを、雑にぐしゃっと押しつぶして一列に並べている。そのせいで思考の再現性が失われてしまっている。この辺ちゃんと意識するようしたい。あと冗長性をも少し大事にしようと思う。この日記のタイトルも「冗長性」だしね。

 ワーキングメモリの容量にかまけて適切な抽象を獲得してこなかったのが良くなかった気がする。

 無力な立憲主義者という文章を読んだ。僕はこういう問題を適切に評価する学問的バックグラウンドをまったく持たないけれども、ともかくある種の熱量と説得力はある。僕は人々が十分に「狡猾」であり、かつ自分の動機に自覚的であれば物事は安定的に機能しし続けると素朴に考えていたけれども、それは甘い認識なのかもしれないと思う。十分な狡猾さを得るのにも資本がいるし、自分の動機をどのように解釈するかという点で文化的振れ幅がある。人々が上手くやってゆくのは難しい。みんななかよく。

0429

 とあるブログ記事で「デッサンは完成させようと思うな。思った瞬間に、雑になる」という一文を読んで、少し考えこんでしまった。僕は完成の見えない作業をするのが苦手だ。というか、終わりが見えてはじめて何かに取り掛かることができるという方がより近いかもしれない。思い当たるのは、僕はつねに「完成させたあと」のことを考えているということだ。いつの間にか、目的が手段に転じてしまっている。何かをするために、その何かの外側に意味付けを必要とする。無限に後退してゆく意味を求めて、僕は先を急いだ。人生を雑にこなしたその先にあったものは、ただ根源的な無意味であった、というのはこれまで散々書いてきたことである。これではいけない、と思う(ほんとうに?)。丁寧に丁寧に。「完成だけを見据える」こと。

 フォン・ノイマンは6歳の時に8桁の暗算ができたとかそういうエピソードを聞くと、何やら自分とは別種の天才という生き物がいるのだというちょっと諦観気味の気分になるけれども、ためしてみると案外5桁の掛け算くらいは頭のなかだけでやれてしまうものだ。もちろん相応の時間はかかるけれども。脳内筆算で計算するとすれば、覚えねばならない数字はせいぜい50くらいのもので、語呂合わせなんかを使って長期記憶にしまいこんでしまえば作動記憶はずいぶん節約できる。計算経過を記憶するという部分を除けば本質的な困難さの程度は2桁の計算とだいたい同じだ。他にもやってみれば意外とできてしまうことというのはあるのだろうと思う。「人間に可能なこと」の一般的観念が人間に枷をはめている事例はたくさんあるのに違いない。

 頭のなかだけでものを考えるのがけっこう好きだ。作動記憶に乗るように問題を切り分ける過程で、自分の思考様式が変化するのを実感できることがあるから。些細な例だけれど、最近「二本の釘に一本のひも」というパズルを考えていて、そういうことがあった。ひも全体の連関を一度に考えようとするとすぐに頭がパンクしてしまうのだけれど、いくつかの操作を操作として抽出できれば、人間の貧弱なメモリでも扱えるようになる。ひらめきの心地よさと、あたらしい特徴量を獲得する嬉しさ。世界を圧縮することは、ある意味では自分を拡張することなのだと思う。もっとこう入り組んでゆきたい。

0428

 迷いなんてなくて、ただ内観の不足があるだけ。

 世界を分節したのは私ではない、私も世界が切り分けられてはじめて現れるものだから。紙面上のインクの染み、それは誰かがそう見ないかぎり「線」ではないけれども、でも誰も見ていなかったところで、誰かがそれを見れば「線だ」と言うような「それ」はある、というような喩え話にある意味で似た仕方で、世界はすでに分節されている、それは本質的ではないけれども、ある現在に対して唯一定まる、実感としての分節線である。知覚ドットのオンオフの束。それがすべてを表現している、と考えたい。時間的な方向を含めて考えれば、分節や解釈は複数ありうるように思われるけれども、しかしある瞬間に対する「感じ」は世界全体でひとつ定まっているのだ。

 自分の哲学でつらくなっているうちはまだ奥へ進む余地がある、という予感。

 素粒子物理の博士を持っているバイト先の上司に、そのへんの領域で使われている数学について聞く機会があった。彼によれば、だいたいのことはフーリエ変換とテーラー展開でなんとかしてしまって、危ういところは〈直観〉で補佐するという感じらしい。なんというか、人間!という気持ち。

 意志という形式もこの世界の本質的カテゴリではないのだと考えれば人を恨むことじたい筋違いに思えてくる、というこの思想も本質的ではなく、起こっていることが起こっている。にゃーお。

 向かいに建物があったせいで日当たりがあまり良くなかったのだが、いつの間にかそれが取り壊されていてめっちゃ日差しが入ってくるようになっていた。日照権

 ある種の憎悪でもって思考を加速できるという意味では、哲学の授業に出ることは有用かもしれない、と思うようになった。けっこう消耗はする。

 自分の知的傾向のこと。僕は認識から解釈までの距離が近すぎると思う。あらゆることについてとりあえずの説明を当て嵌めてしまう。曖昧さへの耐性のなさの裏返しだろうか。ともかくあまり誠実な態度ではない気がするので、判断を保留するということをやれるようになりたい。きちんと情報を集めること。

 DCGANのGeneratorをRNNに繋いでtext2image(image2textではない)。学習させてみているけれどあまりうまくいく気はしない。それから以前為替を学習させていたDQNを少し改造して、正の報酬と負の報酬とで経験ストックを分けてみた。結果は全然ダメ。やはり値動きとして現れている程度の情報からは未来を予測するのは無理なのだろうか。もっと単純なゲームで評価してからのほうが良いかもしれない。うーん。

0417

 DCGANとRNNを繋いでimg2txtじみたことをやっているけれど、なかなかうまくいかない。一応それらしい日本語を吐き出しはするものの、内容が入力画像になかなか合致しないのだ。出力テキストにちょっと癖があるのも不味いのかもしれないが、そもそもGANはデータセット全体についての良い低次元の表現を得るという点ではAutoEncoder系のモデルに少し劣るのではないか、と思う。最悪の場合、DiscriminatorはGeneratorの生成物の微妙な癖などを判定基準として学習してしまい、そうなると今度はGeneratorも細かいところばかり頑張るようになってしまう。要は、モデルが人間とは異なる分節においてデータを解釈するようになってしまうのだ。結局のところ良いモデルとは、人間に近い仕方で物事を解釈するもののことであり、それはつまり、人に近い仕方で制限を課された認識枠組みのことである。GAN系のモデルはその制限が緩すぎる気がしている。そんなことを考えながら、Unsupervised Learningの論文を調べていたら、CatGANというモデルを提唱している人たちを見つけた。さらっと読んだだけなので誤解しているかもしれないけれど、これはGANのDiscriminatorをClassifierで置き換えたものらしい。面白い発想だと思う。それからつい先日、Simple Gate Unit(SGU)という新しいRNNモデルについての論文が出ていた。LSTMよりはるかに収束が速いらしい。構造は簡単ぽいので自分で書いてみようかと思ったのだけれど、どうやらChainerの中の人達がすでに実装しているっぽく(社内チャットに論文が流れてから一時間後には実装されていたとか)、それが公開されるのを待つことにした。PFNの人たちの先進性とある種の野性味?には憧れるものがある。

 知能とは人間的な仕方で歪んだ確率密度関数なのだ、という思いが日増しに強くなってゆきます。

 先日、友人と散歩をした。とくに目的地を設定せずに歩いていたのだけれど、最終的には僕の最寄り駅から本郷キャンパスまでの道のりを踏破することになった。電車以外の交通手段で大学まで行くのははじめての経験で、ああこれらは地続きに存在していたのだなと少しばかり感動する。これなら自転車通学というのもありだったのかもしれない、と思う。というかちょっと検討してみよう。今年はそれほど頻繁に通うわけでもないし、定期を買うより安上がりだろうし。なにより良い運動になる。

 ところで目的地を決めずにただ歩くということは人間には不可能なのではないか(あらゆる行為には意図が内在してしまう(それが意図の内的性質である))。