Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0505

 新しく言葉を覚えるのはむつかしい。辞書的な定義を知るだけでは、その言葉を正しく理解したことにはならない。言葉を知ることは、その言葉の使用に妥当する新しい状況を知ることであり、世界に新しい境界を引くことである、と思う。たんなる言い換えによって語彙を水増しされた文章は、読んでいて全身がむず痒くなってくる。だからそういうのはなるべく避けたいと思っているのだけれど、真なる意味で語彙を増やすことは、すなわち人格を更新することであって、二十才を超えた身としてはかなり厳しいものがある。いや、そんな気弱なことを言っていてはいけない。人生の解像度をもっと高めたいと願うのであれば。

 小さい頃からなにかを覚えるのが嫌いだった。記憶すべきことを最小にするためのルールをいつも探していた。それはそれで良い訓練になっていたとは思うのだけれど、この世界にある雑多な豊かさとでも言うべきものをだいぶ取りこぼしてしまっている気がする。それに新しい基底が増えれば単純さの意味合いも変わってくるはずなのだ。もっと次元の高い空間でつるつるしていること。

 最近だいぶましになってきたとはいえ、僕はいまだ相対性と抽象の世界に生きていて、だから(暗黙にではあっても)つねになにかを貶めていない限り、自分が自分であることを正当化できない。普通に嫌な奴なのでやめたいと思うのだけれども、自分が嫌な奴であるのは嫌だからやめたいというのが動機である限り無理な気もする。

 ある人がそれを~として解釈するとき、その「~」に入るものが実在するわけではない、ただ彼がそれを「~」として解釈していると判断するための基準があり、その基準もまた「~」と同じ構造をしている。起こっていることが起こっていて、あらゆる解釈もそこに含まれる。すべては一枚の紙面の上での出来事である。

 プロレゴメナをちびちびと読み進めています。ようやく半分くらい。カントの考えている枠組みがちょっと整理されてきたような気がする。まず、模様としての世界、物自体は感官に作用し、直観として構造化される。そしてそこに悟性が判断を下すことによって経験が可能になる。直観されただけの世界はあくまでも主観的なものであり一回的なものであるのだが、それが純粋悟性のカテゴリー(量とか因果とか)に組み込まれることによって、普遍妥当性を獲得する。悟性とはいわば(人間にとっての)辻褄を世界に付与する仕組みである。ただしこの悟性による判断は、直観による裏付けがあってはじめて意味をもつ。悟性の機能しうる領域はわれわれが直観する世界よりも広く、それゆえに裏付けとなりうる直観を原理的に持たないような判断をしてしまいうる(そうした悟性の思惟しうる世界の全体は可想界と呼ばれる)。それを批判したのが純粋理性批判であった。みたいな。そういえば浪人中に読んだカント哲学の解説書に「月が綺麗なので自殺する」みたいな文があって印象に残っているのだけど、これは直観に裏付けされない純粋悟性概念「なので」の例だったのかもしれない。いつか確認してみたい。

0408

 哲学は自己免疫疾患です。

 システマティックに生きているとすぐ人生が今日×N日になってしまう。より効率的に生きてゆくために作り出された仕組みが、人間を生きることから締め出してしまう。問題なのはここで「さあ非効率なことをしよう、不合理なことをやろう」と意図的にやっても無駄なところだ。それらは意図の外から世界の意志によって現れてくるものでなくてはならない。とか考えていて、結局のところ人生に意味をもたらすのはある種の「不安」なのかもしれないと思った。ハイデガーじゃん(読んだことないのだけど)。

 カントの認識論は、パターン認識を喩えに用いればわりと平易に説明できるのではないかと思った。パターン認識では特徴量を用いてデータの中に特徴を見出すわけだけれど、ここで認識されているのはデータの中の特徴”そのもの”ではなく、データと特徴量の関係である。

 形而上学について考えることの形而下における意味、ということを考え始めるとどうもそこから先に進むことのできないぶよぶよした壁みたいなものに突き当たる。一時的に真理であったものたちがいつの間にかただの態度表明に堕している。やっていくことができるならば内容に眼目はないのだと言ってみて、なんでやっていこうとしているのかわからなくなる。考えるな、直観しろ、その限りにおいて世界は極彩色の意味をまとってお前の眼前に存在している。だからどうした?

 そこから矛盾が導けるからといって矛盾しているわけではない。世界の無意味さが思考によって暴かれるのではなく、ある種の思考が世界を無意味にするのだ。人生を含むたくさんの物事は、引き延ばせば交わってしまう線分をそのままにしておくことで辛うじて成り立っている。そして僕らはときどき、それらを引き延ばして交わらせてしまう。

 中学の時に「高校への数学」の裏表紙で見て気になっていた図形(たぶんSEGの広告だったと思う)がSteiner chainというものであることを偶然知った。10年ぶりの再会である。というちょっといい話(?)。

0401

 「選言は絵に描くことができない」と言っている人を見かけて興味深い視点だと思った。「林檎がありかつ蜜柑がある」という状況は林檎と蜜柑を一緒に描けば伝わるが、「林檎または蜜柑がある」という状況はどう描いたものかよくわからない。「林檎がある」「蜜柑がある」「林檎と蜜柑がある」を別々に描けばよいだろうか。とすると今度はこれら3つの絵の関係をまた別に記述せねばならない感じがしてくるわけで、以下同じ話を繰り返すことになる。このことについて考えていて気付いたのは、僕はどうやら「選言がそれ自体としてひとつの事実である」という風には認識できていないようだ、ということだ。なんというか、「P∨Q」という命題を、{P, Q, P∧Q}に与えられた冗長な名前だと思っているふしがある。むかし記号論理学の講義を受けたとき、不条理則の証明を直観的に理解できずに困った記憶があるけれど、理由はこれだろう。不条理則の証明ではPからP∨Qを導き、これと¬Pから(任意の命題)Qを導くわけだけど、ここで出てくる「P∨Q」は僕の中では「P」の別名に過ぎなかったわけである。P∨Qと¬PからQを導くという選言三段論法が成立するためには、「P∨Q」が”実態としては”{Q, P∧Q}に与えられた名前でなくてはならない、ように感じたのだ。この感覚は未だに払拭されていない。僕にはP∨Qが見えないのだ。

 もちろん「これは形式的体系だから」と言えばそれまでなのだろう。講義でも、「これらは(日常的な)意味を抜き取られた記号的体系であり、日常的直観に惑わされてはならない」と教わった。しかし裏を返せばそれは、形式的体系はもはや日常生活においては意味を成さないということでもある、と思う。それで良いんだろうか、と思わないでもない。


 われわれはわれわれの「自然さ」に基づいて思考している。そして「この自然さを限りなく延長したならば」というかたちで思考不可能な事態について言及しようとしたのが形而上学である、と僕は考えている。だからそれは別に超越についての言明などではない。ウィトゲンシュタインが「無限は限りなく大きな数などではなく、ひとつの規則である」と述べたのと同じ意味で、形而上学は超越について語るものではなく、「自然さ」に基づいた世界観の「超越論的補完」であり、ひとつの(形而下の)規則である、と思う。もちろんこの考えもまた補完された世界観空間上の点にほかならないわけだけれども。ということもまた。

 というような話を昨日ある人にしたところ、「そう考えることにプラグマティックな意味はあるのか」と聞かれた。むしろプラグマティックな意味しかない、というのが僕の答えだ。そう考えることによって、こういう考えに自然さを感じることによって、僕は「ほんとうの」へのこだわりを抑えることができている。もちろん完全に抑えられているわけではないけれども、先の喩えを使うならば「補完すべき点」を出来るだけ一点に集めることによって、そうした自分の傾向性を管理しやすくしている。ただひたすらにプラグマティックに生きることを正当化しているとも言えるかもしれない。喩えて言うといまの自分はひとつのヤジロベエである。無限に小さな神秘に支えられながら、形而下でバランスを取っている。いつ転ぶか知らない。

 なんだかこう書いてしまうと虚しい気持ちになってきますね。僕はなにをやっているのか。なにもやっていないのだ。そしてこれからもずっと。

0329

 ふと思ったこと。僕は概念を分析することにあまり価値を見出していない。たとえば愛と友情の違いとか、真実と美の類似性とか、そういう主題について考えることに意味を感じないのだ。というのもわれわれはそれらの概念をふわっと扱っているのであって、そのふわっとした使用によってわれわれの言語共同体がまわっているのであれば、そのふわっとした使用こそがそれらの概念の意味だということになり、それを分析して得られた結果は、ある意味で余計なものということになるだろう。ここにおいて概念の分析はむしろ創造的行為ということになる。僕には創造性がない。

 自分には機能しかないのだと最近よく感じる。この傾向はこれからさらに強まってゆくのだろう。それならばせめて高性能な機械でありたい、美しい武器でありたい、と思う。やっていくぞ。

 本質と必然を否定し、観念にはただ生活における有用性のみがある、という考え方を多くの人が拒むのは、それだと世界が恣意的な妄想の世界になってしまうよう思われるからかもしれない、とふと考えた。これは観念論に対する批判と同根だろう。だがそうではないのだ。というのもその恣意性はわれわれの自由によるものではないからだ。たしかに世界の分節化・構造化の仕方は恣意的だが、それは言うならば世界それ自体の意志に従っているのであって、われわれの自由にはならない。われわれの意志や自由はあくまで言語ゲームの内側にあり、言語ゲームの内側においてそれらはたしかに自由であり意志なのだけれども、その力は、言語ゲームを支える自然・物自体の従う秩序、には及ばない。この世界には〈本質〉も〈因果〉も〈時空〉もないが、(ある意味で偶然的に)われわれはそうした観念によって世界を構造化しており、その世界観の選択はわれわれの意志によるものではなかった。ここにきわめて微妙な問題がある、と思う。物自体の世界(叡知界だっけ?)における偶然性(これも〈偶然性〉ではない)は、われわれにとってはある意味で「必然」なのだ。このことは、世界の非決定性がそのまま自由意志を肯定するわけではない、という話とも関連している。サイコロの出目が非決定的であるとして、サイコロに自由はあるのか。この話が明らかにするのは結局のところ自由は観念にすぎないということだが、われわれにとってはまさにそれが自由なのであり、その意味での自由に対して、世界の(偶然的な)選択は必然性として映るのである。なんだかよくわからなくなってきた。言葉遊びはむつかしい。

 結局のところ、後期ウィトゲンシュタインもまた超越論哲学なのだ、ということを思う。形而上学をやめるのは本当にむつかしい。とくにやめる必要もないのかもしれない。数学だって無限を扱っているのだし。

0324

 大学を卒業しました。学術機関としての大学とは相性が悪かったけれども、場としての大学は好きだったのでちょっとさみしいです。こういう場所をまた見つけられると良いのだけれど。

 ちょっとした振り返りを書いておく。

 高校卒業前日の夜、自分の何者でもなさに絶望して眠れなかったのを覚えている。あの頃の僕は自分を取り巻く状況をほとんど認識できていなかったから、高校3年間をほぼ遊んで過ごした。授業は聞いていなかったし、趣味に打ち込むということもしなかった。ただひたすらぼんやりと生きていて、まあそれはそれで楽しかったのだけれども、その間にすっかりアイデンティティを喪失してしまっていた。とくに勉強ができるわけでもないし、絵や音楽にしたって自分より上手い人、真剣な人がいくらでもいた。どうでもいいことについて考えるのはけっこう好きだったけど、だからと言って先人の思想を学ぶということもしなかった。そういうわけで、3年間の間に僕は漂白され尽くし、卒業前夜になってようやくそのことを強く意識したというわけだった。今にして思うとちょっと異常だと思う。幾つかの能力に対して、人格の発達がかなり遅れていたのだ。でそんなわけだから、大学入ってはじめの数年は、失った自己像を取り戻すための期間だった、ように思う。がむしゃらに多方面に食指を伸ばし、やっぱりなんか違うなあとなるのを繰り返した。自分で言うのもなんだがわりと必死だったと思う。必死だったぶん、周囲の必死でなさにたいしてしばしば憤りを感じていた。自分はこんなに真剣に生きているのにどうして皆はそう飄々と生きていられるのかと思っていた。理不尽な怒りであると今なら分かる。おそらく東大に来るような学生というのは、それまでの人生において、もっと穏やかな形で自己像の形成を済ませているのだ。僕のような曖昧さでもってそこにいる人間のほうがイレギュラーであり、異常な人間が生きづらいのは当たり前である。それで前期課程ではだいぶ精神の調子を崩してしまい、精神がダメだとなにをやってもうまくいかない。結局点数が足りず行きたい方面(と言ってもほとんど消去法のようなものだったのだが)は諦めて、それならばいっそと哲学専修課程へと行ってみることにした。これはまあ悪い選択ではなかったと思う。教育機関としての哲学専修課程は正直どうかと思うが(まともな哲学教育がなされているとは言い難い)、そのぶんたくさんの暇があったのはありがたかった。安田講堂横のクスノキの下のベンチに腰掛けていろいろと考え事をした。この日記にも書いてきたが、そこで僕は、世界がひとつの連続であること、私は世界であること、言葉は道具であり身体や鳴き声の遠い延長にすぎないこと、実在が在るのではなくわれわれが実在を見出していること、無意味さもまた意味であること、などを見出した。その道標となったのは後期ウィトゲンシュタイン仏教思想(の一部)であって、それらに出会えたことを僕はとても幸運に思っている。もちろんこれが〈正しい〉哲学であるとは僕は思わない。ただ自分には世界がそのように見えるようになり、それによって曲がりなりにも生きてゆくことが出来るようなった、ということが重要である。だいぶ回り道をしてしまったけれども、たぶんこれが僕という人間にとって(生き延びる)最短経路ではあったのだ。死ななくてよかった、と思う。あとそうだ、駒場の野矢先生にはだいぶ影響を受けたのだった。あの人に「君にある種の嗅覚があるのはわかるが君の言っていることは全然わからん」と再三言われ続けたおかげで、多少は理解可能な言葉を喋ることが出来るようになった観がある。まだまだ言葉足らずだったり自閉的な言い回しを使ってしまうことは多いけれども、ひとまず意味の通る卒論を書けたことはひとつの成果であると考えることにしている。さてこうしてある程度の精神の安定を得たわけであるけれども、だからといって手頃なアイデンティティの獲得に成功したかというと微妙なところがある。生きることには意味がないというところからわれわれは決して意味から逃れられないというところへ一足飛びしてしまったために、いろんなことがどうでもよくなってしまった。どうでもいいというか、どれでもいいのだ。もちろん嫌いなもの、苦手なものはあるけれど、それはそれとして、どのように生きてもそれには意味がある、というところで結局、なにをやって生きてゆくか悩むことになった。何者かでありたいという強い動機が薄れてしまったのだ。はじめは大学院へ進学することを考えたのだけれど、諸々の煩雑さや、なにより自分の思想を理解されたいという気持ちの薄さから、やる気を失って詰む様子がありありと想像できたのでやめにした。そもそも院試の勉強に手が付かないのだから院進などすべきではない。もちろん考えることは自分の数少ない楽しみのひとつだし、大学という空間への憧れも多少はあるのだけれど、自分と似た傾向をもつ大学院生の様子を見るに僕には無理そうである。となると就職しなくてはならないわけだが、就活は精神に悪い。というわけで、バイト先の会社に雇ってもらうことにした。割とすんなり雇ってもらえたので良かったと思う。ただしこれからやっていけるかはちょっと不安である。飽きてしまったらたぶん死ぬ。生きていきたい。

 なにはともあれ、高校卒業前夜のような絶望的な気持ちは今はありません。僕は僕であってそれ以上でもそれ以下でもない。それでいいのだという気分です。客観的に見て僕はかなり駄目な部類の人間だけれど、それはまあ淡々と対処してゆけばよいだけのことです。そんなふうに考える僕は愚かになってしまったのかもしれない。


 卒論に修正を加えて、後期ウィトゲンシュタイン入門として公開しておきたい気持ちがある。大学入学時の自分が読んでなるほどと思えるようなものにしたい。(野矢先生の後期ウィトゲンシュタイン解釈に反論したいというのもある(彼は言語が世界を「記述しうる」と考えている(ここに書いてどうするのだという感もあるが)))。

 僕のような人間にとって初動にかかる勢いは大きな仕事でも小さな仕事でも変わらないから、できるだけ細かい仕事は入れたくない。困難は統合せよ。僕にはこっちのほうが向いているかもしれない。

0304

 4月からはひとまず計算機巫女業をやって食べていきます。kaggleのData Science Bowlで優勝して賞金で生きていくというのも考えているけど、流石にそれは厳しそう。

 自分が物事を後回しにしてしまうのは、正しい後回しの仕方を知らないからなのだな、ということを思った。TODOリストのすべてが短期記憶上に乗っていて、作業領域を圧迫しているのだ。普通の人たちは、短期記憶に乗り切らない情報はその都度長期記憶やメモなどに退避させていて、必要でない限り思い出さないのだろうと思う。だから限られた短期記憶を広々と使うことができる。一方僕はその時の生活のすべてが短期記憶上に展開されていて、ある物事について考えている間も、べつの用事や問題について完全に忘れることはない。忘れるときは情報が揮発するときなのだ。だからやるべきこと同士が干渉しあって何もできなくなってしまったり、完全に失念してしまったりする。たぶん人間関係などについても似たようなことをやっているのだと思う。僕の友達の少なさやある種の薄情さは、長期記憶の欠陥に原因がある気がしている。どうしたものかしらん。

 「虫眼鏡で蟻を観察している」と言う代わりに、「蟻が前に置かれたときの虫眼鏡を観察している」と言ってならない道理はない。何が観測対象であり何が観測機器であるのかの線引は畢竟恣意的なものだ。目に見えない現象を明らかにする特別の観測機器であると思われていたものは、在る現象を惹き起こすための特別の道具であるのに過ぎないのかもしれない。

 「世界は立方体の組み合わせでできている」という認識と「われわれの観測は世界を格子状に分割する」という認識との間に本質的な優劣はおそらくない。というのもわれわれが世界を分割する仕方はわれわれの自由にはならないからだ。どちらも〈正しい〉認識ではないというのが、本当のところだろう。言語に世界を既述する能力などないのだから。原子論も全体論も、ただ言語的構成物の極限であるに過ぎない。どちらを選ぶかはただ言葉のうちに生きるわれわれの好みに委ねられている。

0228

 論理の説得力は錯視のそれに近い、ということをふと考えた。

 『プロレゴメナ』をちびちび読んでいます。今更ながらやはりカントは偉大だと思う。ただ純粋直観と経験的直観の区別は彼が考えていたほどには厳密なものではなく、むしろスペクトラムをなしているように僕には感じられる。時間や空間、論理なんかはとても硬い直観で、一般的な対象の構成は柔らかい直観という感じ。硬さというのは、つまりどのくらい「そうでないことはありえない」と気持ちに訴えてくるかということ。

 論理学は一種の内省なのだと思う。つまり人間が自らの認知能力を観察するときに見出される法則たちが、論理法則なのだ。思考もひとつの自然現象だと考えれば、論理法則はまさに自然法則である。だがここにおける自然は結局のところ言語ゲームの内側で語られる自然なのであって、そこで見出された法則はいくら硬いものに思えようと、完全に硬いということは、つまり〈自然〉そのものであるということはありえない。ニュートン力学が世界を完全には記述しないのと同じように、論理学は思考を完全には拘束しない。規則のパラドックスはそうした事態を反映しているのだと僕は思う。

 認識について認識すること。自分の認識プロセスそのものが観察対象になるとき、主体は奥へ奥へと後退し一点の光になる。意識のゼロポイント。Fiat lux!