Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0605

 たくさん昼寝したせいで昨夜は上手く寝付けず結局一睡もしないまま仕事へ。こないだ大きめの案件が終わった関係でとくにやることはなく、論文を読んだり実験をしたりして過ごす。要するに大したことはしていない。

 僕の抱いているニューラルネットにたいする直観は、新たな研究成果によって次々と覆されていく。えっ君ってそんなやつだったの、とびっくりした次の瞬間にはその姿もまた仮初のものであったことが明らかになっている。最近だとAdaptiveな勾配法が実は汎化性能の点でSGDに劣っていることが分かったりとか。これは僕の感覚なのだけどSGDの汎化性能を支えているのは学習時に生じるノイズであって、AdamやらRMSpropやらは収束が滑らかすぎるのだと思う。じっさい逆伝播してきた勾配に適度にノイズを加えると精度が上がるという話はある。僕もちょっと試してみたことがあり、ResNetの最適化においてMomentumSGDと同程度かちょっと良いくらいの精度をAdamで出している。まあ使ったデータセットがCifar10だから一般に成り立つ話かはわからないけれど。ちなみに僕がやったのはこれ(https://arxiv.org/pdf/1511.06807.pdf)で紹介されているのとは別のオリジナル(かどうかは自信がない)のもので、よく覚えてないけどたぶん勾配の絶対値に比例する標準偏差のgaussian noiseを加えるみたいなものだったと思う。

 相変わらず体調はよくない。明日には元気になっていたい。

0604

 どうでもいい日記を再開しようと思います。

 体調が悪くて一日ぐったりしていました。全身に無駄に力が入っていて体液の循環が滞っている感じ。折角の休日に勘弁してほしいし、「折角の休日」なんてことを考える自分の生活にがっかりする。休みたいときに休んで働きたいときに働けたら良いと思うのだけれど。きっとそのほうが僕は上手く機能するから。ただ自分にフリーランスはまったく向いていないとも思うので(そういえばINTPはフリーランスになると所得ががっくり下がるというグラフを見たことがある)、適当な組織に属しつつその中で最善をつくすのが現状では最適解なのかなーとも。よく分からん。

 インターネットで「ASDは単語(オブジェクト)よりも文法(語の確率的繋がり)を優先する傾向があり、平均的な知能を持つASD者はアニメのセリフの引用などが多い」みたいな主張を見かけて、自分はわりとそうだなあと思った。会話中に本の一節をそのまま引用することが多いし、(言葉で考えているときは)内容より構文で連想が進む傾向がある。ただし意味にたいして鈍感かというとそうでもなく、そちらはどちらかと言えば視覚と関連が強い。構文と意味の分離。最近はちょっと統合できるようなってきた気もするのだけれど。

 「100色の帽子があり、それを100人の囚人にかぶせる。それぞれの色の数は決まっておらず、すべての囚人に同じ色の帽子が与えられることもありうる。囚人は自分以外の99人の帽子を見ることができるが、自分の帽子は見えないし、一度帽子をかぶせられたら互いに意思疎通を行うことは出来ない。さてここで囚人たちは一斉に予想した自分の色を言う。一人でも正解していれば全員が助かり、さもなくば全員処刑される。帽子を被る前に相談タイムが与えられており、囚人たちは戦略を立てることができる。確実に処刑を免れるには、どのような戦略を立てればよいか」。ここ数日ずっと考えていたのだけどようやく答えがわかった。逆向きにものを考えるのが少しは出来るようになってきたみたいで嬉しい。やっぱ言葉は便利ですね。

0603

 草原にじっと寝そべってときどき尻尾をパタリと動かすやつやりたい。

 なにもかもが自明な作業に見えてきてつらいときは、画家や音楽家の身体は自明な動きしかしないけれどもそこから生み出される圧力は非自明であるという事実について考えることにしている。僕の生活はよい旋律を奏でているだろうか。

 そのように解釈できるからと言ってそのように解釈せねばならないという道理はない。それらを同一視出来るからと言って同一視せねばならないわけでもない。倫理だってもとを辿ればエゴなのだとか、この世界に本質的な価値などないとか、そういった言説も、ある視点に対応する抽象に基づいたひとつの解釈なのであって、その説得力は真理に由来するものではなく、あくまで人間的な生活の次元に源泉を持っている、”と解釈することが出来る”!。だから、僕らは選ばなくてはならない、自分の立っている場所を。選ばなかったところで、選んだことになってしまうのだから。

0505

 新しく言葉を覚えるのはむつかしい。辞書的な定義を知るだけでは、その言葉を正しく理解したことにはならない。言葉を知ることは、その言葉の使用に妥当する新しい状況を知ることであり、世界に新しい境界を引くことである、と思う。たんなる言い換えによって語彙を水増しされた文章は、読んでいて全身がむず痒くなってくる。だからそういうのはなるべく避けたいと思っているのだけれど、真なる意味で語彙を増やすことは、すなわち人格を更新することであって、二十才を超えた身としてはかなり厳しいものがある。いや、そんな気弱なことを言っていてはいけない。人生の解像度をもっと高めたいと願うのであれば。

 小さい頃からなにかを覚えるのが嫌いだった。記憶すべきことを最小にするためのルールをいつも探していた。それはそれで良い訓練になっていたとは思うのだけれど、この世界にある雑多な豊かさとでも言うべきものをだいぶ取りこぼしてしまっている気がする。それに新しい基底が増えれば単純さの意味合いも変わってくるはずなのだ。もっと次元の高い空間でつるつるしていること。

 最近だいぶましになってきたとはいえ、僕はいまだ相対性と抽象の世界に生きていて、だから(暗黙にではあっても)つねになにかを貶めていない限り、自分が自分であることを正当化できない。普通に嫌な奴なのでやめたいと思うのだけれども、自分が嫌な奴であるのは嫌だからやめたいというのが動機である限り無理な気もする。

 ある人がそれを~として解釈するとき、その「~」に入るものが実在するわけではない、ただ彼がそれを「~」として解釈していると判断するための基準があり、その基準もまた「~」と同じ構造をしている。起こっていることが起こっていて、あらゆる解釈もそこに含まれる。すべては一枚の紙面の上での出来事である。

 プロレゴメナをちびちびと読み進めています。ようやく半分くらい。カントの考えている枠組みがちょっと整理されてきたような気がする。まず、模様としての世界、物自体は感官に作用し、直観として構造化される。そしてそこに悟性が判断を下すことによって経験が可能になる。直観されただけの世界はあくまでも主観的なものであり一回的なものであるのだが、それが純粋悟性のカテゴリー(量とか因果とか)に組み込まれることによって、普遍妥当性を獲得する。悟性とはいわば(人間にとっての)辻褄を世界に付与する仕組みである。ただしこの悟性による判断は、直観による裏付けがあってはじめて意味をもつ。悟性の機能しうる領域はわれわれが直観する世界よりも広く、それゆえに裏付けとなりうる直観を原理的に持たないような判断をしてしまいうる(そうした悟性の思惟しうる世界の全体は可想界と呼ばれる)。それを批判したのが純粋理性批判であった。みたいな。そういえば浪人中に読んだカント哲学の解説書に「月が綺麗なので自殺する」みたいな文があって印象に残っているのだけど、これは直観に裏付けされない純粋悟性概念「なので」の例だったのかもしれない。いつか確認してみたい。

0408

 哲学は自己免疫疾患です。

 システマティックに生きているとすぐ人生が今日×N日になってしまう。より効率的に生きてゆくために作り出された仕組みが、人間を生きることから締め出してしまう。問題なのはここで「さあ非効率なことをしよう、不合理なことをやろう」と意図的にやっても無駄なところだ。それらは意図の外から世界の意志によって現れてくるものでなくてはならない。とか考えていて、結局のところ人生に意味をもたらすのはある種の「不安」なのかもしれないと思った。ハイデガーじゃん(読んだことないのだけど)。

 カントの認識論は、パターン認識を喩えに用いればわりと平易に説明できるのではないかと思った。パターン認識では特徴量を用いてデータの中に特徴を見出すわけだけれど、ここで認識されているのはデータの中の特徴”そのもの”ではなく、データと特徴量の関係である。

 形而上学について考えることの形而下における意味、ということを考え始めるとどうもそこから先に進むことのできないぶよぶよした壁みたいなものに突き当たる。一時的に真理であったものたちがいつの間にかただの態度表明に堕している。やっていくことができるならば内容に眼目はないのだと言ってみて、なんでやっていこうとしているのかわからなくなる。考えるな、直観しろ、その限りにおいて世界は極彩色の意味をまとってお前の眼前に存在している。だからどうした?

 そこから矛盾が導けるからといって矛盾しているわけではない。世界の無意味さが思考によって暴かれるのではなく、ある種の思考が世界を無意味にするのだ。人生を含むたくさんの物事は、引き延ばせば交わってしまう線分をそのままにしておくことで辛うじて成り立っている。そして僕らはときどき、それらを引き延ばして交わらせてしまう。

 中学の時に「高校への数学」の裏表紙で見て気になっていた図形(たぶんSEGの広告だったと思う)がSteiner chainというものであることを偶然知った。10年ぶりの再会である。というちょっといい話(?)。

0401

 「選言は絵に描くことができない」と言っている人を見かけて興味深い視点だと思った。「林檎がありかつ蜜柑がある」という状況は林檎と蜜柑を一緒に描けば伝わるが、「林檎または蜜柑がある」という状況はどう描いたものかよくわからない。「林檎がある」「蜜柑がある」「林檎と蜜柑がある」を別々に描けばよいだろうか。とすると今度はこれら3つの絵の関係をまた別に記述せねばならない感じがしてくるわけで、以下同じ話を繰り返すことになる。このことについて考えていて気付いたのは、僕はどうやら「選言がそれ自体としてひとつの事実である」という風には認識できていないようだ、ということだ。なんというか、「P∨Q」という命題を、{P, Q, P∧Q}に与えられた冗長な名前だと思っているふしがある。むかし記号論理学の講義を受けたとき、不条理則の証明を直観的に理解できずに困った記憶があるけれど、理由はこれだろう。不条理則の証明ではPからP∨Qを導き、これと¬Pから(任意の命題)Qを導くわけだけど、ここで出てくる「P∨Q」は僕の中では「P」の別名に過ぎなかったわけである。P∨Qと¬PからQを導くという選言三段論法が成立するためには、「P∨Q」が”実態としては”{Q, P∧Q}に与えられた名前でなくてはならない、ように感じたのだ。この感覚は未だに払拭されていない。僕にはP∨Qが見えないのだ。

 もちろん「これは形式的体系だから」と言えばそれまでなのだろう。講義でも、「これらは(日常的な)意味を抜き取られた記号的体系であり、日常的直観に惑わされてはならない」と教わった。しかし裏を返せばそれは、形式的体系はもはや日常生活においては意味を成さないということでもある、と思う。それで良いんだろうか、と思わないでもない。


 われわれはわれわれの「自然さ」に基づいて思考している。そして「この自然さを限りなく延長したならば」というかたちで思考不可能な事態について言及しようとしたのが形而上学である、と僕は考えている。だからそれは別に超越についての言明などではない。ウィトゲンシュタインが「無限は限りなく大きな数などではなく、ひとつの規則である」と述べたのと同じ意味で、形而上学は超越について語るものではなく、「自然さ」に基づいた世界観の「超越論的補完」であり、ひとつの(形而下の)規則である、と思う。もちろんこの考えもまた補完された世界観空間上の点にほかならないわけだけれども。ということもまた。

 というような話を昨日ある人にしたところ、「そう考えることにプラグマティックな意味はあるのか」と聞かれた。むしろプラグマティックな意味しかない、というのが僕の答えだ。そう考えることによって、こういう考えに自然さを感じることによって、僕は「ほんとうの」へのこだわりを抑えることができている。もちろん完全に抑えられているわけではないけれども、先の喩えを使うならば「補完すべき点」を出来るだけ一点に集めることによって、そうした自分の傾向性を管理しやすくしている。ただひたすらにプラグマティックに生きることを正当化しているとも言えるかもしれない。喩えて言うといまの自分はひとつのヤジロベエである。無限に小さな神秘に支えられながら、形而下でバランスを取っている。いつ転ぶか知らない。

 なんだかこう書いてしまうと虚しい気持ちになってきますね。僕はなにをやっているのか。なにもやっていないのだ。そしてこれからもずっと。

0329

 ふと思ったこと。僕は概念を分析することにあまり価値を見出していない。たとえば愛と友情の違いとか、真実と美の類似性とか、そういう主題について考えることに意味を感じないのだ。というのもわれわれはそれらの概念をふわっと扱っているのであって、そのふわっとした使用によってわれわれの言語共同体がまわっているのであれば、そのふわっとした使用こそがそれらの概念の意味だということになり、それを分析して得られた結果は、ある意味で余計なものということになるだろう。ここにおいて概念の分析はむしろ創造的行為ということになる。僕には創造性がない。

 自分には機能しかないのだと最近よく感じる。この傾向はこれからさらに強まってゆくのだろう。それならばせめて高性能な機械でありたい、美しい武器でありたい、と思う。やっていくぞ。

 本質と必然を否定し、観念にはただ生活における有用性のみがある、という考え方を多くの人が拒むのは、それだと世界が恣意的な妄想の世界になってしまうよう思われるからかもしれない、とふと考えた。これは観念論に対する批判と同根だろう。だがそうではないのだ。というのもその恣意性はわれわれの自由によるものではないからだ。たしかに世界の分節化・構造化の仕方は恣意的だが、それは言うならば世界それ自体の意志に従っているのであって、われわれの自由にはならない。われわれの意志や自由はあくまで言語ゲームの内側にあり、言語ゲームの内側においてそれらはたしかに自由であり意志なのだけれども、その力は、言語ゲームを支える自然・物自体の従う秩序、には及ばない。この世界には〈本質〉も〈因果〉も〈時空〉もないが、(ある意味で偶然的に)われわれはそうした観念によって世界を構造化しており、その世界観の選択はわれわれの意志によるものではなかった。ここにきわめて微妙な問題がある、と思う。物自体の世界(叡知界だっけ?)における偶然性(これも〈偶然性〉ではない)は、われわれにとってはある意味で「必然」なのだ。このことは、世界の非決定性がそのまま自由意志を肯定するわけではない、という話とも関連している。サイコロの出目が非決定的であるとして、サイコロに自由はあるのか。この話が明らかにするのは結局のところ自由は観念にすぎないということだが、われわれにとってはまさにそれが自由なのであり、その意味での自由に対して、世界の(偶然的な)選択は必然性として映るのである。なんだかよくわからなくなってきた。言葉遊びはむつかしい。

 結局のところ、後期ウィトゲンシュタインもまた超越論哲学なのだ、ということを思う。形而上学をやめるのは本当にむつかしい。とくにやめる必要もないのかもしれない。数学だって無限を扱っているのだし。