Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

揉めメモ

以下メモ

ある命題があり、命題は複数の検証方法を持つことはあり得ないのだから、経験的に決着のつかない二つの仮説があったとするなら、その二つの仮説は意味が同じであると言わざるを得ない。ということ。
なんとなくわかるような、わからないような。
そもそも内的な関係として、文法を持ち出す必要は本当にあるのか。意味が知られているというのはどういうことなのかしらん。
命題の成立に、指向が必要であるということは、理解したのだけど。何も記述する意図がないならば、そもそも何か意味をもつ文が生じることなどあり得ないのだから。ああ、いや、意味が解釈されうる文は作られてもいいのだけど、それが命題として成立することはないわけで。物理法則を例に考えれば良い、はず。

この前なんか面白いこと考えていたような気がするから、ここに残しておく。Twitterは参照性が低すぎて良くない。

けれども、僕は僕の意識を、僕の意識から眺めているのは、僕の意識が確かだと言っている。自意識の外的な性質とは、自意識に対してのみ、自己に対してのみ、開いている。おそらくここが、独我論が立ち上がる次元である。
posted at 07:48:24

汎心論とか、そういうお話は、ここで否定されて良い。
posted at 07:45:00

そこにおいて、脳機能の一部に意識を発生させる器官があるとか、世界の素要素の内的性質こそが意識の根源であるなど、一般的な誤解が生じているのでは、と思う。たぶん、そんなことはあり得ないのだ。
posted at 07:41:48

ここで、自意識に外的な性質はあるだろうか。人間の知性や衝動、その他生物的な機構が外部に対して表明するその人間の意志は、人間の外的な性質として、世界の素要素の主張する自然法則に還元出来るはずである。つまりこれは、自意識を途中に挟む必要は無い、ことになる。
posted at 07:40:22

人間は、自然法則に則って作動しているように思う。僕から見て、他者を、そのようなものとして理解できない道理はないように思う。
posted at 07:33:37

あるシステムの内的な性質は、システムを構成する諸要素の、外的な性質で記述できるはずで、この世界の素要素の外的性質、つまり、自然法則にまで還元できるはずだと考える。内的なものがあるように言ってきたが、ここでは、そのようなものは全て見せかけであるとされる。
posted at 07:31:26

自然法則そのものというのは存在しないわけで、常に何かに実現されているものとして主張される概念である。その主体は、これ以上内側に、法則性を取り入れる余地のない、世界の素要素であるのが都合良いだろうと、考えてみる。
posted at 07:27:33

内的な性質というものが有り得るだろうか。
posted at 07:08:50」