Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

リアル謎解きについて僕の感じていることまとめ

 今日スクラップさんによるマグノリア銀行からの脱出デバック公演に参加してきて、問題を解くということについて少し考えたのでまとめておく。問題を一般化・抽象化することで、本質的に同等な行為において見せかけの新規性を生じうる修飾の仕方を明確に認識することが出来れば、というのが目的だ。(僕は具体的にそれを提示するわけではないが) 謎解き文化にいささかの貢献が出来たなら幸いだ。(読んでくれる人がいるかどうかすら定かではないのだけど)

 今回マグノリア脱出を終えて(脱出は成功した)最初に感じたのが、自分は当たり前のことを当たり前にやっていただけだということだった。、天才的な閃きや洞察で窮地を打開するような、単純な論理の積み上げを超えたことをやったわけではないのだ。これは単に僕が無力だったというわけではなくて、チーム全員の働きについて言えることだと僕は思う。(本人がどう思っているかは知らない) あらゆる問題は解けるべくして作られていたし、あらゆる閃きは誘導されていた。無理のない、美しい問題のセットだったと思うけども、裏を返せば、単純に思考速度のみがものを云う作業だった、ということになる。そして、思い返せば、今までに説いてきたあらゆる問題は、そのような性質を持っているのだ。

 問題を解くというのは極めて人間的な行為だと僕は思っている。全てを知っている神さまにとって問題なんてものは存在しないし、同様にその辺に転がっている石ころにとっても、世界は問題なんて概念とは無縁の、自明な広がりだろう。それに対して人間は、いくつかの自明に認める事実と推論の手段、知識や、物事をモデル化する能力によって、問題とそれに対する解答という形で思考を組み上げることが出来る。その営みを意識的に再現したものが、パズルとか謎とか呼ばれる問題群だ。

 おおまかに言って、謎には次のパターンがある。
 まずは、知識を問う問題。アメリカの初代大統領は誰か?というようなオーソドックスなクイズなどが代表である。知らなければ解けない(この問題については後述する)ので、謎解き界隈では敬遠される傾向があるようだ。webで行われる謎解きでは事情が異なるけども。
 次に、与えられたルールと初期条件を元に、終了状態を導くタイプの問題。数独や虫食い算などがこのタイプに含まれる。また、知識を問う問題との融合として、クロスワードパズル等があるだろう。単純な作業になるため、あまり複雑な問題はリアル謎解き界隈で見ることは少ない。
 最後に、ルールを見出す問題。初期条件から終了状態を導く点では2番めのタイプと同様だが、これは初期条件がより豊富に与えられていて、そこから規則性を理解することが出来るようなっている。規則については、ヴィトゲンシュタインパラドックスのような問題はあるけども、大抵の人間が認められるような、シンプルで明解(これの定義については色々言えてしまうが)なものになっている。前提知識が要らないとされているので、これが最も謎解き界隈ではよく見かける形式だ。
 これらと、これらのうち幾つかを組み合わせたものが、概ね謎の全てである。もしかすると、あらゆる謎解きは知識を問う問題に収斂すると言えるかもしれないが、今のところこれくらいに分類しておくのがよいと思う。

 さて僕がここで問題としたいのは、ルールを見出すタイプの問題の解答の正当性だ。先にヴィトゲンシュタインパラドックスをちらっと挙げたが、規則というのは結構恣意的な概念である。あらゆる数列に対して、その条件を満たす規則性を無数に考えることができる、ということだ。その上で、謎が唯一の解を持つものとして成立させるためには何が必要か。
 まず考えられるのは、解答欄の形式などといった物理的な(というとアレだけども)制約である。いくつかの解は考えられるが、5文字なのはこれだけだと言うこと。それから、忘れてはならないのが、解答となる文字列が、それ自体意味を持っているということだ。それっぽい言葉が出てきたり、現れた数字で鍵を開けることが出来れば、それが答えであったということになる。どちらにせよ、答えが答えであろうことが容易に判別できるということである。つまり問題を解くことと答え合わせとが同じであるということで、閃きの快感の発端はこれだ。
 ところで、この閃きに至るプロセスというのは結局のところ総当りに近いものがある。そこに見出すことが可能なルールが唯一でない以上、思い浮かぶ可能性を逐一試してゆくしかない。この可能性の広さの加減こそが、良問と悪問とを分ける大事な部分である。そしてそれらがかなり主観的なものであることも。

 今回僕がマグノリアに大して感じた不満の大部分は、ここに原因を持つものであった。つまり、考えられる可能性の範囲が小さすぎたのだ。当たり前に従ってゆけば解けてしまって、それこそ作業であった。しかしこれは、作問者に問題のすべてがあるわけではない。僕が謎解きの文脈に慣れすぎてしまったというのもかなり大きいのである。すなわち僕の主観的には、あらゆる問題が知識を問う(しかもその知識を持っている)問題に近づきすぎてしまったのだ。
 これはかなり根の深い問題で、今の形式の謎解き文化を終わらせてしまう可能性を秘めていると僕は思っている。なぜなら、いくつかのパズルを内包した曖昧な謎解きという文脈は、その名詞のもつ緩やかな結合によってもたらされているのであり、その作業化は即刻飽きへと繋がってしまう可能性があるからである。例えば、数独クロスワードは単純な作業ではあるが、パズルの巨塔として長く親しまれている。それはその作業こそがそのパズルの醍醐味として認められているからだろう。一方謎解きというあやふやな集合は、その本質が舞台設定や物語性、もの新しさによるものであるため、問題を解くという行為自体に置いては、毎回代わり映えしないことが多いのだ。謎解き団体や公演が飽和している、という意見は、これを反映したものだと思われる。

 この解決に、単純な難易度の上昇は意味を持たない。考えうる可能性を広げすぎると、すぐさまこれは思いつけないだの、必然性がないだの、言ってしまえば悪問と呼ばれてしまうのだ。参加者は人間である以上、参加者の習熟度に合わせて適切に難易度を挙げてゆくというのもすぐに頭打ちとなる。
 考えうる解決は、舞台設定や背景の物語の複雑深化、あるいは全く違う形式への転換であろうと思う。僕と花岡氏がかつてリアル脱出ゲームをweb上に持ち込んだ時、webに持ち込んだという以外には全く新しいことをやっていなかったにも関わらず、そこそこの好評を博した。これは、もの新しさというのが、その内容と関係なく存在することを示していると思うし、また、場所を変えて新規の参加者を集うことが割と重要であるということでもある。それと、僕が提案したいのは、ある程度複雑な規則性をその場で学習することをゲームに盛り込むことだ。微分を知らない人間に微分の問題を解かせるために、微分を教えてしまおうというような発想だ。マンネリ化の問題を先延ばしにするために使えるかもしれないと思っている。もしくは、文化というものの常として、一部の愛好家たちとの間で、内輪にその高度化、進歩を楽しむということ。ハイコンテクスト化してゆくことを好意的に受け止めて、一つの基盤を築くこと。もしかすると、これが最も堅実で理想的な道かもしれない。まあ仮にそうなってしまったら、僕は謎解きへの興味を失ってしまうのだろうけども。