Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0814

 ビザの申請に行って来ました。今度こそうちでプリントアウトした申込用紙を受付に提出して暫く待っていると、内容にミスが有り(僕の名前の最後の一文字、CHIのIが抜けていたのです)、またも再提出せねばならなくなりました。親切にも受付のおばさんが、駅前のマクドナルドの上にネトカフェアルヨと片言の日本語で教えてくれたので、そこへ行ってぽちぽちと入力しなおしました。無駄に300円かかったけども、フリーのドリンクをたくさん飲んで喉の渇きを癒せたから良しとしましょう。下のマクドナルで昼ごはんを食べて、もう一度ビザ申請センターへ。もうやり直しはいやだと祈りつつ待っていると、今回は問題なかったらしく、料金を払って手続きが終わりました。これで一応、旅行に関する事務的な手続きは全部終わったことになります。そう思うと、僕は本当にインド行くのだなという実感が湧いてきて、取り返しの付かないことをしてしまったのではと恐ろしさを感じたりもするのですが、同時にとても楽しみにしている自分もいて、不思議なものです。そしてこの均衡が崩れる瞬間はきっと心地よいに違いないという確信もある。それが出来るかどうかは、行ってからの僕のやりようによるのだろうけども。

 それから新宿へ行って、サークルの友人たちと風立ちぬを見ました。Twitterでの感想をちらほら見ていると、演出的な部分やお話の構成をもっと積極的に俯瞰して楽しまねばならない気がして少し身構えたのですが、さすがはジブリ、何も考えずとも結構楽しめました。堀越二郎の神経質な天才っぷりには憧れるものがある。ゼロ戦の設計するところも描いて欲しかったけども、時代設定的に無理があったのかな。まあ別にそれが本筋じゃないからアレなのだけども。あと、ジブリの描く水面は良いですね。それから、あらゆる場面、あらゆる方法で表現される風。こういう創作物というのは、全て人が構成したものである以上、そこに描かれる草一本にさえ何らかの意図があるはずで、僕はそれを思っていつも厳かな気持ちになるのです。そしてその意図の一辺でも垣間見ることが出来ればと願うのですが、それが成功したと思えることはほとんどありません。その原因はきっと、作品の根底に流れる大きなものを理解できないがゆえに、些細な演出の意図を自分なりに察したところで、自分の解釈が物語の流れに一致しているか確かめることが出来ていない、からなのだろうと思います。あるいは、細部の観察が足りないから物語の本質を理解できていないということでもあるのかもしれない。それらはきっと同時にやらねばならないことで、つまり単純に観察力が足りてないのよね。物語が読めるようになりたいな。(ナボコフの文学講義、ちゃんと読まなきゃ)

 その後ゲームセンターで少し音ゲーとかやって、ファミレスでお話をしていました。総括するとどうして僕らには親友ができないのかみたいな話になるのですが(つらい)、日記書くのに疲れてきたのと、話の内容を正確に思い出せないので、ここに書くのはやめておきます。まあ得るものは結構あったので良い。