Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0105

 大学の始まりが近づいていて憂鬱。

 昼ごろ起きて、とりあえずすべきことをしておこうと思い、新宿にメガネを作りに行きました。僕には、ある程度のクオリティを期待されるものについてはとりあえず新宿へ行っとけみたいな思想があるぽいのだけど、なんでそうなるのかいまいち良くわからん。Googleにお伺いを立てると新宿駅周辺に幾つか眼鏡屋さんが見つかって、そのうち一件の口コミ評価がやたら良かったのでひとまずそこまで歩いてみたのですが、思えば口コミの文面全部似てるしステルスマーケティングぽいなと違うところにしました。ある意味では非論理的な行動。
 ミロード内のJINSというところへ行ったのですが、飾ってあるメガネがちょっと貧相で、ああ前の相棒はなかなかできるやつだったのだなとか感慨もひとしお。まあしかし視力の矯正は必要なので、視界に問題がなくかつあまり派手ではないものを選びました。
 店が混んでいて視力の測定まで結構待たされるとの事だったので、今のうちに髪を切っておこうかといつもの美容院へ行ってみたのですが、予約でいっぱい。仕方なく喫茶店で本を読んでいました。新田義弘の現象学。最近の僕の読書は、自分のあまりの理解度の低さから精読偏重気味だったのですが、そうなると今度は最後まで読み通せなくなってしまい、それでは元も子もないだろうと、ちょっと軽めに読むようしてみました。わからないことは飛ばして、でも一応全ての言葉を内語で追ってみる、程度の読み方。何も頭に残らないかもなあとの懸念はあったのですが、実際そうしてみると、わかるところはわかるし、またそのわかるところを核として周辺の内容もちょっとだけ理解できたので、案外これで良いのかもしれません。文章を読むということが、本当はあまり当たり前の行為ではなく、しかも実体のよくわからない行為であると思い知らされて以来、仮定された完璧な読書像を追い求めてきたのだけど。一見正しそうに見えることが、人間の本質とかけ離れていることはよくあるのだ。正しさは、つねにカッコ良いわけではないのです。
 僕が現象学が苦手な理由について。昔から現代思想の用語の難解さには手を焼いていたのですが、その難解さはそれぞれの言葉の意味するところが部分的にかぶっていたりする点にあるのではないか、と思いました。僕なんかからすれば、現象学的概念は、認識系の機能的単位を幾つかまとめて名前をつけただけのように思われてしまうのですが、さらに、その名前でまとめられた諸要素の大部分が、他の語のそれと重複しているということが多分にあるようなのです。何かを説明するために、より以上の概念が必要となる事自体が非直感的なのに、それらが独立してさえいないというのは、本当に難しい。きっと、その微妙な違いが本質的に重要なのでしょう。けれども今まさに学んでいる側としては、その重要性を感じられるほどの前提知識がないし、ただ混乱させられるだけなのです。もう少し分かりやすく理論を整備してくれと言いたい気持ちもあるのですが、全体があって初めて部分が意味をなすのが体系なのであって、ううむ。哲学は本当に個人主義的な学問です。才能がなくてはどうしようもない。
 時間が来たので眼鏡屋さんにもどり、視力検査。検査はすぐに終わって、実際にメガネをつくるまでにまた一時間待たされました。その間は読書の続き。
 完成したメガネをかけると、世界はこんなに美しかったのか!と人間ってこんなに醜かったっけ?が同時にやってきました。初めてメガネつくった時も同じことを感じたっけな。安いメガネでしたが、視野の歪みもそれほどなくて、なかなかよい感じでした。
 家に帰って、現代思想の小さなレポートを書き(ニーチェ、割と結論ありきでものを書いているのでは、とか。僕の誤読かしらん。)、メールに添付して送信。ちょっと頑張った。
 メガネ作りで一日使ってしまって、かばんの修理とか髪切りとか全然出来ていません。明日のうちに何とかしましょう。初詣にもゆきたいよね。