Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0306

 わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です

 早めに眠ったのになぜか12時間近く眠ってしまって、それから出かけて間に合う時間ではなかったから、入校説明会は別の日のものに参加するむねを連絡しました。最近あんまり上手に眠れていないのかもわかりません。睡眠相がだんだん後ろにずれてゆくし。またメラトニンでも個人輸入しようかしら。

 人間の脳には大きさがあるから、例えば、人差し指の感覚に対応する部位と、視覚情報を処理する部位とは別にあるはずなんだけれど、そうした空間的な広がりのあるパターンが僕という人格を形成しているのは何やら不思議なことのように思われます。いや、そうしたパターンが人格を形成している事自体は別に構わないのだけれど、それが僕ってなるとなんか変だよな、みたいな。意識の歯車には大きさがあるの、というか。少し違うな。うーむ、うまく言葉に出来ない。

 今夜はどうやらあらゆるものが信用できなくなる種類の夜です。認識に対する信頼がいつも以上に怪しくなっている。僕は壮大なドッキリに巻き込まれているんじゃないか、何者かに騙されているんじゃないかと思う。僕という人間のなすことは、僕という意識を抜きにしても全部やれるはずなのに、なぜかしらないけど僕はこうして今ここにある。自分とその他を決定的に分けているはずのこの自我の性質が、他者たちの言及する自我のそれと似通っているのはどうも奇妙だ。僕から見た僕は僕であり、僕から見たAは僕にとっての他者であるのに、第三者Bからすれば僕もAも同じように他者である。
 物質的構成が自分とまったく同じ人間がもう一人いるとして、そいつは誰なのかという空想を小さい頃していました。父親の影響でスタートレックが好きだったのですが、作中に出てくる転送技術について、あれは本当に人が移動しているのか、それとも移動前の人間は消えてしまって現地でまったく同じ別人が作られるのだろうか考えて不安になったり。ああそうそう、スタートレック技術解説というwebサイトを読んだのがきっかけでハイゼンベルク不確定性原理だの相対論だのに興味をもったのでしたね(どうやら今もあるようです、すごいな)。あのへんでもう少し踏み込んだ勉強をしていれば、ちょっとした天才小学生をやれていたかもしれないと思うのですが、残念ながらそうはならず。で、まったく同じ別人の話だけれど、たぶんまったく同じであるならばそいつは同一人物であると言って良いのだけれど、しかし二人の人間が占める場所というのは同じではあり得ないから、それが二人の差異を生み出してゆくだろう、だからある人がある人で在り続けるということは、その移動が連続的であることなのだ、と考えるようになりました。そうなると、私というものを世界から抜き出して考える事自体がちょっとおかしいということになってくるわけで、そういう意味で僕はある程度決定的な世界観を信じています。別に未来が決まっているとは思わないけれども、自由さもないよね、というような。けれどもそういう世界観の中に自分という現象を位置づける仕方がわからない。もしかするとそれは一瞬の煌きであって、すぐまた違う何かに切り替わっているのかもしれない。僕が今この瞬間に指差した僕は、過去や未来における煌きとはまるきり別のものなのかもわからない。しかしその瞬間にのみ僕が煌き、また僕でない僕が煌き続ける連続の中で、その一瞬の煌きだけは本物であるように思う。光速で駆け抜ける鉄道の車窓から、一瞬見えて過去に飛び去っていった青色の照明は、しかし確かにそこにあったのだ。それはいったいなんなのか。ただひたすら分からなさだけがあります。