Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0615

 哲学は知性の墓場だというようなことを考えていました。まあそこら辺に死体が放ってあるよりは墓場が整備されているだけいくらかましだとは言える。

 知性が知性それ自身を問題にするとき、そこでは一個の知性が見る側と見られる側とに分離されるのです。その断絶への畏怖とそれをなんとかして統合せねば自己が拡散してしまうというおそれが人を哲学に駆り立てるのだと思います。少なくとも僕はそういう理由で考えている、気がする。

 僕らは物事を因果性の裡に把握し、説明を組み立ててきた。その最たるものが科学なのだろう。それはもはや人間の認知機能それ自体を説明しつつある。僕らが知覚し意志し行為する仕組みを一つのメカニズムとして解明しつつある。けれども因果性そのものを因果的に語ることはできない。あらゆるものの原因はもはやなにかの結果ではあり得ない。そのあたりになんらかの限界が存在しているのだろう。それはいったいなんなのだろう、と思う。

 メカニズムとして人間を捉えるならば、私や自由意志は主観の形式ということになる。赤い光を赤さとして知覚するのと同じように、僕らは脳の指令を意志として知覚する。そこに究極的な意味での自発性は存在しない。僕らは機械であり、流転する物理現象の一部分だ。ゆえに精神が何かを意志するためには世界からの干渉を必要とする。なにものにも拘束されない精神は、もはや偶然性以外のなにものでもなく、そんなものを僕らは意志とは呼ばないことになっている。
 因果的枠組みにおける私の機能は、輪郭線の策定者として統一的に解釈できるだろう。超高次元特徴空間に張られた平面。僕らはだいたいそんな感じの何者かだ。
 だがそうした枠組みからはどうしてもこぼれ落ちてくる何かがある。因果的な説明を拒む何かが確かにここに存在する。なぜ私が私なのか、なぜ今が今なのか、なぜここがここなのか。それらは、そうでないことがあり得ないがゆえに問いとして成立しないなにかである。あらゆる言葉が沈黙させられる領域がそこに広がっている。
 こうして問えない何かを問おうとする僕の精神状態についてですら何らかの説明を建てることが可能なのだろうと考える。なにせ僕と同じ問いを問うている他者が存在するのだから。ゆえに僕が僕であるという命題は因果的枠組みにおいては宙に浮いている。僕は何かを受け入れねばならない、あるいは受け入れ続けているのだろう。

 何が言いたかったのかよく分からなくなってしまった。