Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0320

 木漏れ日の影が頁に落とすコントラストをいつまでも眺めていたいと思った。

 異常な倦怠感。慢性疲労症候群(CFS)を疑っているのだけれど、診断を受けたわけではないので確証はない。そもそもCFS自体曖昧な概念で、いま現在明確な定義は存在していないという。ただ、CFS患者の脳には炎症が見られるという研究結果を理研が出していた。マイクログリアだのアストロサイトだのといった脳内細胞が炎症発生時に出すタンパク質をPETで見ることが出来るらしく、それによれば疲労の症状に対応して脳の各部位が炎症を起こしているという。海馬だと抑鬱扁桃体視床、中脳だと認知機能の低下、といった具合。ところで炎症というのは生体の防衛反応であるらしく、とするとCFSにも何か原因となる刺激があるはずである。Wikipediaで慢性炎症を調べると、原因物質が取り除かれれば炎症は止まるとあった。CFS患者にはずっと寝たきりになるような人もいるので、単純な身体的疲労よりはむしろ精神的ストレスが疑われる。心理ストレスが炎症を惹起するという話はどこかで読んだ。CFSによって社会生活が阻害されることによってさらに精神的ストレスを生じる、という悪循環が起こっているのかもしれない。あるいは、免疫系の疾患。またこれと似た話で、小児性慢性疲労症候群の子供の脳に異常な活動が見られるという研究も理研が行っていた。過剰に神経を活性化させて情報処理をしているために脳が疲労するのだとか。「脳の疲労」というのがなにを指しているのかよくわからないけれども、先の精神的ストレスによる脳の炎症というのがこれに当たるだろうか。とすると心理的ストレスというのがそもそも脳の異常活動か。医学の概念というのは案外そこまで還元的ではないのだなあと思ったところで、脳の異常活動というと今度はgifted childの脳について扱った文章"Brain on Fire"などを思い出す。彼らの脳もまた、異常に活動しているようだ。これは前頭葉の活動が普通の子供より弱いことに起因しているようで、認知的脱抑制や彼らの疲れやすさはこの辺に関係していると言われる。ADHDなどとも連関がありそうな気配がある。などなど。というようなとりとめのないことを考えていた。ちょっと我田引水気味であり、これは僕の弱い部分だと思っている。

 何はともあれ異常に疲れています。バイトでPCの画面を長時間眺めているのが良くないのかもしれない。週三×六時間の労働でこうなるのだとすれば、僕に社会生活は絶望的だな、と思います。はー。

 WAISで+3σ近い値を出している人たちを何人か知っているけれど、みんな僕と似たような種類の疲れやすさを抱えているように見える。F1カーで公道を走っているような感じなのかもしれない。

 因果関係は操作の概念と密に関係している、と思う。というか、それを我々が操作できることが因果の認識の前提にあるように僕には見える。より正確に言うならば、まずそれが「それ」として認識され、「それ」に対する操作が「操作」として見え、そしてまた結果が「結果」として分節される、ということが生じてはじめて、そこに因果を問うことができるようになる。この認識が正しいのであれば(正しいってなに?)、真の自然法則は、それに従わないということができないがゆえに因果的には把握されないだろう。という気がする。そして、われわれにとって確率的にしか見えないものがあるとすれば、それこそが真の決定性の現れなのだ、などと妄想してみる。そこまでくると「決定性」の概念がまともに機能していない気がするけれど。

 僕らはそれをAとBとに区別してみただけで、それぞれについて本質を直観したわけではない。けれども僕は、認識とは本質直観ではなく(思考の経済学的合理性に基づいた)識別なのだということを、こうして指摘することができている。もちろんその認識も、本質的なものではなく、それが境界線のどちら側にあるかということに過ぎない。つまりAとBを区別したそれとなんら変わるところはないのだけれど、そこに生じる見せかけのメタフィジックスが、哲学を含むあらゆる学問を生み出したのだ、ということを考える。このこと自体が見せかけのメタフィジックスなのであるけれども。形而上学だって形而下の営みなのだ。