Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0814

 昨日はうまい具合に衝動性を上げることができたので青春十八切符を買って電車に飛び乗ってみた。京浜東北線に揺られながら適当に近場の観光地を調べていると、静岡県の三島という場所が気になったので向かってみる。昼過ぎに家を出て寄り道しつつ向かったので到着したのは夕方。天気は曇り。
 インターネットの写真から受けた印象は正しくて、三島はとても自分好みの街だった。街なかを綺麗な小川が流れていて、川沿いに散歩道がある。路地が多く人も少なくて、歩いていて楽しい。途中で雨が降り出したので早めに引き上げたが、晴れた日に再訪してもっと探索したいと思う。18切符はまだ4日分残っているし。ちなみに帰路にはグリーン車を使ってみた。青春18切符と併用できて、熱海東京間で800円くらい。ゆったりできてなかなか良かったので長距離移動するときはまた使ってみるかもしれない。

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 絵にせよ楽器にせよ数学にせよ、一歩一歩考えながら練習することが大切なのだけど、僕は集中するとすぐ言葉を忘れてしまうので困っている。なんというか自分の「自然な活動」の中には言語使用が含まれていない感じがする。毎日ひとりごとを言い続けるとかすればよいのだろうか。

 例のGoogleの解雇騒動を受けて平等について考えていた。解雇された人物の書いた文章を読むと、Googleの反応は少々ヒステリックだったのではないかと思わないでもない。彼はべつに男女に能力差があるとは書いていない、ただ集団には傾向が存在するということを指摘しているだけのように思える。でたぶんこの傾向の違いをどのように捉えるかというところに、問題の焦点はあるのだろう。Google側からすれば、そうした傾向は誤った伝統・文化背景や偏見、経済事情に根ざすもので、「理想的な状況」においては生じ得なかったはずのものであり、それを自然な傾向として認め放置することはそれ自体が差別になりうる。だが件の解雇された社員からすれば、その「理想的な状況」という観念こそがひとつの独善的な思想であり、自由な議論を妨げるエコーチャンバーに見えたのだ。彼は"De-moralize diversity"(多様性の脱道徳化)を主張している。多様性は善なのではなく、ただ多様性を必要としている人がいるのにすぎない。
 僕は自由責任モデルを信じていないので、ある人が道徳的な人達から見て最悪な道徳観を持っていたところで、その人に責任はなく、彼がそのような道徳観をもつに至った個人史すべてをひっくるめて「不運」と呼びたい。あとはただ論戦が存在するだけだ。みんな好き勝手戦えばよいと思う。僕はそうする。