Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0608

 いま自分は何も考えることが出来ていない、という事実にふと気づく瞬間があり、そういう瞬間が最近増えている。よいことだと思う。頭の中でイメージをこねくり回したり言葉を連ねたりしているとなにかを考えている気になってしまうのだが、そうした実感と有用な思考ができているかとはまったく別のことだ。現実との摩擦を欠いた思考、現象に生えた取っ掛かりをうまく掴むことのできていない思考は、僕らを間違った地点へと連れて行ってしまう。意味のある思考をするためには、なにはともあれ現実に取っ掛かりを見出すことだ。世界に対して爪を立てる感覚。はじめはつるつるして滑ってしまうのだけれど、だんだん引っ掛けるべき場所がわかってくる。

 世界には本来的にはエネルギーの濃淡があるに過ぎないが、それを分節化しゲシュタルトを編み上げることによって現実を操作することが可能になる。網膜に映る色の集合をすべて等価に見ているうちは何も出来ないが、そこに林檎を見出すことによってそれを手にとって食べることができる。むしろ身体の要求を満たす形で現実を構造化しようとすると、そこに林檎というゲシュタルトが要請されることになるといったほうがよいかもわからない。そもそも身体というのが一つのゲシュタルトであり、そういう意味ではここにはある種の堂々巡りがあるのだが、ともかくそうした分節化の上にわれわれの現実はある。僕が取っ掛かりと呼んでいるのはこの分節のことである。

 ひとたび取っ掛かりが見えるようになると、現実は格段に単純になる。世界が模様に過ぎなかった頃は、めちゃくちゃに世界を引っ掻き回して報酬の増減を見るしかなかったものが、林檎や手が一つの対象として見えるようになれば、探索せねばならない範囲は大きく狭まる。とりあえず「林檎」を「口」に「持っていって」みるということができるようになるわけだ。

 問題は、どのようにして取っ掛かりを掴むかということである。すでに手のうちにある取っ掛かりの組み合わせでなんとかなる場合には、そのようにすれば良い。言語的(記号的)思考が有用である領域はここだ。しかしそうではない場合、一から新たなゲシュタルトを編み上げねばならない場合にどうすればよいのか、僕にはまだ有効な指針がない。結局のところそのためにはやはり、めちゃくちゃに世界を引っ掻き回してみるほかないのではないかという気もするのだが、もしここにもっと効率的なやり方があるのであれば、僕にとっての宇宙は遥かに住みよい場所になるだろう。そうなる日を夢見ている。