Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0822

 ここ半年ほど、学部教養程度の微積分を復習していた。あまり心の体力に恵まれた人間ではないので、仕事の合間に少しずつ、それも大半の時間を、極限の議論で用いられている思考の枠組みを頭に馴染ませることに集中していた。それでわかったのは、実数というのは、ある種の無限に続く操作に対して数直線上の(唯一の)居場所を割り当てる仕方であるということで(自分にとってより自然な言い方をするなら、そのような仕方が存在するという約束をすることで)、これに得心がいってしまってからは、あとに続く微分積分の議論はまあまあ自明のことに思われて、なるほど基礎を理解するとはこういうことかと感動したりしていた。僕の理解が数学者の見解に照らして「正統な」ものであるかは自信がないが、少なくともそのような捉え方をすることで教科書の内容を圧縮して脳に収められたことは確かで、これまで(ウィトゲンシュタインの思想の一部―これはもともと自分の脳との親和性が極めて高かった―を除いて)空で再現できるほどに何かを習得できたことのなかった僕にとっては大きな進歩である。

 何かを理解するということは、新しい文体に習熟することであるということは、だいぶ以前から認識してはいた。つまり言語ゲームのルールに慣れるということだが、それを実際に行うことは、依然として自分には難しかった。やはりどうしても、理解を、意味という神秘的オブジェクトを捕食する営みとして捉えてしまう。言い換えれば、対象の意味を文体と独立であると考え、自分の中に既存する文体でもってそれを記述しようとし、その既存の文体を超える対象のエッセンスを取り零してしまうのだ。「カタチから入る」ことができないのは、自分の弱点の一つだろうと思う。もっとも、それを美徳だと考える自分がいることもまた事実である。カタチから入ることが極端にできないがゆえに見えたもの(美しいものである)だってある。それは大切にしたいと思う。

 おそらく外国語の学習もカタチから入るのがよいのだろう。とりあえずなにか言ってみる。そうして、その言語における「自分の言いたいこと」をつくってゆく。いわば新しい人格を作るようなものだが、言語習得の得意な人はそれを自然にやっているのではないか。翻って自分は「日本語における自分の言いたいこと」以外に「言いたいこと」をつくるつもりが毛頭なかったために、ある程度の直訳が可能というレベルを超えて外国語を習得することができなかったのではないかという気がする。いまのところ技術的な英語が読めればそれで十分ではあるのだが、最近ちょっと日本語の外側がどうなっているのか気になってきているので、異言語用人格の一つや二つ新しく用意してみてもいいかもしれない。必要なのはたぶん、幼児期のもどかしさに耐える覚悟である。


 久しぶりに深夜にモニタに向かい文章を書いている。夏の夜は寝苦しくてよくない。とある大学で講義をするという、自分には分不相応な業務を仰せつかっていて、それのストレスもある。人前に立つのは苦手だ。どうか誰も僕の話を聞いていませんように。

 労働における自分の仕事内容が公(?)に対して開かれていないことにどうも自分は不満を抱えているらしいということに最近気づいた。これは自分の働きが組織の外部から評価されていない云々という話ではなくて、それぞれの業務が、会社やクライアントの私的な(そして瞬間的な)意図のもとにあって、歴史的連続性という形式を備えていないことに対する不満である。言ってしまえば、過去の自分と現在の自分が、ひとつの人間の中で相互作用できていないのだ。哲学することはそうではなかった。過去の僕の思想は、たとえそれが拙いものであっても、僕という歴史の中の一つの位置を占めていた。だが業務上の僕は、雑多に積み重なるコードスニペットの集合であり、時間性は喪われ、ただ散逸してゆく日々があるのにすぎない。べつに無意味なことをやっているとは思わないし、ときに創造性を要することもある。だがそれでもいま自分がやっていることは作業ではあっても仕事ではないと思う。人間が生きるということではないと思う。なんとかしたい。なにをすべきかは、まだわからない。