Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0621

 箱の中にボールを2つ、続いて3つ入れる。箱の中のボールの数は5つになっているはずだが、実は箱の底に穴が開いていてボールが1つこぼれているかもしれないし、あるいは自分の知らない間に誰かが1つ加えているかもしれない。箱の中のボールが実際には何個であるか、箱を開けて中を見てみなければわからないし、さらに言えば、中を見たところで、見落としがないことを保証することはできない。もちろん、理想的な条件を整えてやれば、「箱の中のボールは5個である」と述べることが限りなく妥当であるような状況を作ることはできるかもしれない。だが「《厳密に》操作すればボールは5個であるはずだ」というとしたら、あなたは事実ではなく世界に対する「要請」を語っていることになる。

 論理がア・プリオリに成立するような仕方で世界を分節している存在にとって、世界は論理的であるけれども、その存在にとって、論理のア・プリオリ性は、事実を観測することによって正当化されるようなものでは決してない。彼は論理を諸事実の理想的極限として定式化するかもしれないが、実のところそれは彼の認識の出発点だったのである。


 記憶の宮殿を本格的に整備してみようと思って、ひとまず頭の中に部屋を用意してみた。インターネットで見つけたいい感じの机と椅子が置いてあり、椅子に座って背中側の壁は一面モニタになっている、という想定をしている。普段モニタにはどこかしらの雄大な風景など好みの映像が表示されているが、必要に応じて電子ホワイトボードになり、計算したりメモを貼ったりできる。今のところ室内の光景はぼんやりとしたものにとどまっているので、これからディテールを詰めてゆきたい。強いて意識せずともそこに何があるか「見える」のが理想であり、そのためにはまず目からやってくる情報を完全に無視してしまう訓練が必要であるように思う。現段階ではこれはたまにしか成功しない。


 「民主主義への憎悪」の内容を一度自分の言葉で語りなおしてみる必要を感じているが、知的体力が欠けていてなかなか筆が進まない。もっと頭を鍛えなきゃ。