Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(22)

 第37節。「名と名指されるものの関係とは何なのか?」もしそれが「精神」でないのだとすれば。「それは、場合、場合で様々なことなのだが、ある場合には、名指されたものにその名が書きつけられているということであるし、あるいは、名指されるものが指さされている間に名が言われているという関係である」。

 名とそれが名指すものの間の結合が成立するためには、「これを『コップ』と呼ぶ」という直示的定義において「これ」という指示語が対象を正確に限定しなければならないように思われる。少なくともある種類の人たちからすれば(その背景には「言語の論理を崇高化する傾向」があるとウィトゲンシュタインは言う)。しかし「これ」という指示は、まったくの無前提では機能しない。というのもそれが実際何を指しているのか、いくらでも誤解の余地がありうるからだ。ある人は「これ」を「空のコップ」の意味で解釈するかもしれないし、「金属のコップ」と解釈するかもしれない。にもかかわらずわれわれは「これ」でコップを指すことができる。とすると「これ」という指示には、多様な誤解の中からひとつの解釈を限定する「神秘的」な力があるに違いない。これがウィトゲンシュタインがここで槍玉に挙げている誤りである。ウィトゲンシュタインによれば、ここで実際に前提されているのは「名」にまつわる多様な言語ゲームであり、われわれが生活上で培ってきた文脈であって、ゲームにおける駒ないしルールとして名とか名指しといった行為が含まれているのである。

 大学1,2年生の頃だったか、「何かに名前を付けるためには、それに先立って名付けの対象『これ』が世界から切り出されていなければならない」ということを唐突に理解した日のことを思い出した。それ以前の自分は、世界に「モノ」が存在することを自明視していたのだった。

 ところで、名や名指しといった概念が何を意味するかは文脈によって決まると言ってみて、それは当たり前のことではないか?とみる向きもあるだろう。だが、言語を「世界のモデル」とみなしていた若かりしウィトゲンシュタインにとっては、名は世界の論理と言語の論理を結びつける一つの超越論的架け橋であり、ある種の神秘をまとったものだったのだ。と思う。

 ところで、言語を用いて世界をモデル化するということは、自然科学や、あるいは日常生活において日々行われている。だが論考における「モデル」という語は、日常的な用法に比べてもう少し踏み込んだ意味を持っている。論考においては、世界と言語は「論理形式」を共有していた。この共有は、経験によって正当化されるものではなく、一つの超越的な主張であり、それゆえ論考は超越論的哲学であるとみることができる。例えば論考には次のような記述がある。「ニュートン力学によって世界が記述されうることは、世界について何ごとも語りはしない。他方、ニュートン力学によって世界が事実そうあるとおりに〔完全に〕記述されるということ、このことは世界について語るものとなっている。」論考の言語観は、論理法則の超越性を介して世界そのものについて語りうる余地を残していたのである。これはおそらく、世界について確実な(あるいは超越的な)言明が可能であるとすれば、世界と言語はどのようなものでなければならないかを考察した、ウィトゲンシュタインの祈りのような認識である、と思う。したがって、論理法則の海の中に置かれることになる「名」もまた、役割に見合う性質を備えていなければならなかった。「言語の論理を崇高化する傾向」とはおそらくこのような事情を意味しているのだと思われる。

 科学における自然モデルは、ある言語ゲームにおいてのみ意味を持つ。それに対して論考の「世界モデルとしての言語」は、それ自体として世界と相対するものである。と表現できるかもしれない。

 第38節。

 だが言語ゲーム(8)の「これ」という言葉や、「これを……と呼ぶ」という直示的定義での「これ」は何を名指しているのか、何の名なのだ? ――もし混乱を避けたいのなら、それらの言葉が何かを名指すと言ったりしないのが最善である。――そして実に奇妙なことに、「これ」という言葉については、それこそが本当の名だと言われていたのだ。我々が通常「名」と呼んでいる他のものはどれも、ある厳密でない、近似的な意味でのみ「名」である、と言われていたのだ。

 この奇妙な見方は、我々の言語の論理を崇高化する傾向、――とでも呼びうるものに由来している。冒頭の問いに対する本当の答えとは次のようなものだ。我々は実に様々なものを「名」と呼んでいる。つまり「名」という言葉は多くの異なる、そして様々な仕方で互いに関係する言葉の使用を特徴づけている――しかし「これ」という言葉の使用法はその中に含まれてはいない。

 名付けに先立って「これ」が世界から切り出されていなければならない、という感覚。に素朴な解釈を与えると、上記のような世界観が表れてくるのではないだろうか?

 ――そしてこの不思議な結び付けは、名と名指されるものの関係を解明しようとして哲学者が、目の前の対象を見つめながら名前あるいは「これ」という言葉を幾度も繰り返すときに実際に現れるものである。というのも哲学的問題とは、言語が仕事を休んでいるときに生まれるものなのだから。

 ウィトゲンシュタインの哲学的問題に対する態度が表れている箇所。

 第39節では、「これ」を本当の名と呼びたくなる傾向についてウィトゲンシュタインの分析が説明される。

 ――まさしく次のような理由からである。つまりここで人は、日常的に「名」と呼ばれているものに異議を唱えようとしているのであり、その異議は、名は真に単純なものを表すべきである、と言い表せる。

 論理法則の中に置かれるにあたって名が満たすべき性質。

 節の残り半分では「ノートゥンク」(『ニーベルングの指環』に出てくる剣の名前)を例に挙げて異議の詳細が説明されるのだが、疲れたので今日はここまで。