Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(25)

 なんやかんやで一年経ってしまった。もう少し時間をうまく使わねば。がんばれわが前頭葉。

 ある特定のゲームの外部で「この対象は複合的か?」と問うことは、ある幼い子供がかつてやったことに似ている。その子供は例文に出てくる動詞が能動態か受動態かを言わなければならなかったのだが、例えば、「眠る」という動詞が能動的なことを意味するのか受動的なことを意味するのかについて頭を悩ませていたのである。

 前回引用したこの節は、ウィトゲンシュタインの教師時代のエピソードだと思うが、本筋とは少し異なるところでちょっと面白い。というのは、古代ギリシャ語では「眠る」は中動態なのだ。子供がそこで戸惑うのだとしたら、やはり能動/受動の言語世界は無理をしているのかもしれない、というのはこじつけだろうか。

 第48節。「『テアイテトス』のあの叙述に、第2節の方法を適用してみよう」。つまり、原要素が存在するような言語ゲームを作ってみる。色のついた正方形が原要素であり、その複合物(文)として正方形の配列が記述される。

 少し引っかかる感じがする。「だが私には、我々の文が記述する図形が四つの要素からできていると言うべきなのか、九つの要素からできていると言うべきなのかわからない!」それはあなたがこのゲームを外部から見てるからではないか?真にこのゲームの中に生きている人にとっては、色正方形は原要素であると言って問題ないはずである。というかそもそも、彼らは「色正方形は原要素だ」と言うための言葉を持っていない。彼らにおける「記述」において、色正方形は枠の外側にある。そのような言語ゲームを設定したのだから当然だ。それをゲーム外から眺めて、「何が原要素か確定できない」と言うのは、単にわれわれの日常言語のゲームにおいてそれらが原要素ではないということを意味するのに過ぎないのではないか?と言いたくなる。これは誤読だろうか?

 こういうことかもしれない。突然神様が現れて「これが原要素だ」と教えてくれたとする。たしかにそれは今のところ名指すことしかできないように見える。しかし、48節のいくつかの例が示すように、単純/複合は(言語ゲームの創造可能性という意味では)反転可能である。だから神が与えてくれた原要素は(それをわれわれが認識し名指すことができる以上は)原要素でなくなることもできる、ということだ。ここにおいてなお原要素を考えることに意味はあるのか、とウィトゲンシュタインは問うているように思われる。

 原要素が可能であるとしたら、言語ゲームの外側で決まっており名指すことすらできないか、言語ゲームの可能性に(本質的な)限界があるか、どちらかの条件が必要であるように思った。あー、この二つは結局同じことかもしれない。

 意味のある読書をするための最小時間単位というものがあって、それを下回ると文字をなぞるだけになる。『探究』の場合は2時間程度だろうか。