Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0622

 上手に言葉の出てこない日が続きます。違うな、言葉自体は出てくるのだけれど、吐き出した言葉を意識する力が減っていて、それで自分の言葉の信頼性を担保できない日が続いているというのが正しい。言語野がクーラーのない真夏の教室みたいに淀んでいる。なにもする気が起きず、ただ汗ばむ陽気に耐えている。ぼんやり。解像度の低さ。

 怯えと苛立ちに満ちた小心者の倫理たちにうんざりしている。そういうものが自分の中にいまだ在ることにも。正当化を意図した一切の言説を取り下げて、自分の好みと自然さとをそのままに引き受けて生きていきたい。

「単純な〔分割され得ない〕『私』は、直観でもなければ概念でもなくて、意識の単なる形式にすぎない」(「純理」第一版・382)「私が、私自身についてもつところの認識は、あるがままの『私』の認識ではなくて、私が私自身に現れるままの『私』の認識である、従って自己の意識は、自己の認識ではない」(「純理」・158)

0619

 今日は一日中論文を読んでいました。AbstractとIntroductionを読んでふむふむと分かった気になっても、いざ実装しようという段階になると無限にわからない部分が出てくるもので、自分の理解力に対する自分の批判能力の低さにげんなりする。もう少し慎重になるべき。

 人に興味を持つという表現で言われていることをうまく理解できていない気がする。興味を持った対象がたまたま人間であったということはもちろんありうる。でもおそらく人々が言っているのはそういう意味のことではないのだ。それはいったいどういう気持なのだろう。とここのところちょっと不思議に思っている。

0617

 自分が文字を書くのが苦手なのは、書いてる間に息を止めてしまっているからっぽいということに気がついた。字や絵を書いているときの息苦しさはてっきり首肩周りの筋肉が硬直することによる血流の低下から来ているのだろうと思っていたのだけど、まさかほとんど息をするのを忘れていたとは。深い集中状態に入るとセルフモニタがまったく効かなくなるのでこれまで気付かなかったらしい。はー。息をするのって大事。

0616

 今日は社員総会なるものがあり新入社員は自己紹介を求められたので「自己とは何か」という問いについて話をした。たぶん僕の自己紹介はそれで尽きると思う。

 ここ最近、帰り道に都電荒川線を使ってみている。山手線で大塚まで行きそこで乗り換える。大塚駅周辺のこじんまりと整っている感じが好きで、ときどき駅ビルの本屋で立ち読みしたり駅前広場のベンチでぼーっとしたり。今日はふと良い日本語が読みたくなって村上春樹の「スプートニクの恋人」を読んでみた。やはり彼の書く日本語は音楽的でいいと思う。無辺の宇宙的孤独。

 白杖で地面を叩きながら盲人が淀みなく階段を降りていた。たぶん彼は階段の段数を記憶していたと思う。そういう生活があることをちょっと面白く感じた。

0614

 強化学習かなんかでだんだん賢くなってゆくAgentをみんなで討伐するMMOとかあったら面白いと思う。はじめのうちはただ奇怪に蠢くだけだったAIが少しずつ洗練された動作を獲得していき、いつしか誰にも倒せない怪物になっている。そうなったらサービス終了。人類は人工知性に勝てるか。

 

0613

 わたしとあなたの違いは、言葉においては表面的なものにすぎない。〈このわたし〉を数多の人格から区別する能力を言葉は持っていない。言葉はきわめて対称的だ。だから誰かを殴りつけるために放たれた言葉はたいてい自分をも殴っているし、外敵を拘束するために用いられた言説は同時に自分をも縛っている。語り口を研ぎ澄ませば研ぎ澄ますほどその傾向は強まる。論理的兵装とそれを構成するひんやり硬い言葉の歯車たち。これまでにどれだけの人々がその暴発によって死んできたことか。言葉を使って身を守るということの危うさ。

 今日も今日とてstan職人。だんだん楽しくなってきました。間欠的不規則報酬。

 対象がどういう形をしているか人はほとんど気に留めない。形は対象を対象として編み上げるための足掛かりであって、対象が見えている限りその形に注意が払われることは少ない。だからものを精確に見ることはとてもむつかしい。そのためには一度組み上がったゲシュタルトをばらす必要がある。絵を描くということ。

0612

 6月だしどうせ暑いだろと思って半袖で過ごしていたら身体を冷やしてしまった。ちょっと風邪っぽい。

 シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵」を読んでいます。正直なところあまり好きな本ではない。観念に雁字搦めにされた思想、極度に自由度の低い知性、そういう印象を受ける。なんというかこう、読んでいて痛くなってくる。人のこと言えるのかというと微妙なところであり、なので時折ニヤッとなるような記述に出会うことはある。「美しく善きものすべてが自分への侮辱と思えてくる」とか。あなたも完全な球体になりたかった人なんだね、みたいな。

 ホームから駅構内へと続く階段を下りながら前を歩く人々をなんとなしに眺めていると、見覚えのある後頭部を見つけた。金曜の朝にも同じものを見たのだ。最近そういうのがちょっとづつ増えてきている。同じ時間、同じ経路で出社していると、流れ行く人々の中に少しずつ見知ったものが生じていく。こうして生活は淀んでいくのだ。