Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

lucidity

lucidity【名詞】

1清澄,透明.

2明瞭,明晰(めいせき).

3(精神病患者の)平静,正気.

 僕以外の人間だって「私だけの赤さ」について語ることができる、だからそれは本質的な問題じゃない。だからといって誰にでも〈この私〉があるというわけでもない。意識とか私とか、そんなのはただの言葉だ。言葉は現実を記述するものではなくむしろ現実の一部なのであって、われわれの認識をも裡に含んだ連続体としての宇宙が、なにごともなく進行している。僕らは知らない、知りえないだろう、なぜなら「知」は一つの現象であり、恣意的な分節線に区切られた領域であって、この世界のカテゴリ表に載っているようなものではないのだから。知っているという状態は、そのような状況でそのように振る舞えるということだ。手を放せばりんごが落下するというのと同じこと。知は、理解は、静的な状態では決してない。それらはつねに適用を前提している。ある計算式がなにを計算しているのか、それ自体は計算ではない。つまりあらゆる知識は答えではなく道具であって、身体の(ひいては世界の)、そしてそれが生み出す欲望の(あるいは意志の)延長である。僕らは関数みたいなものであり、知識はそのパラメタで、同時にそれらは宇宙というより大きな関数の部分をなしている。宇宙、それは熱死へと向かう最適化計算だ。生命とはそこにおいて生じた小さな淀みであり、結局のところ終わりに向かうひとつの経路であるにすぎない。そこに干渉することはできない、なにせいかなる文字列もそれが書かれたページを破ったりはしないのだ。これは一つの比喩である。だがわれわれの認識において比喩でないものなどなにひとつなく、このように書くこともまたそうであり、つまり比喩というのも比喩であり、あちら側へと続く扉が見えていて、しかしそこへ至ることもかなわず、これもまた比喩でしかありえない種類の比喩である。淀み、偏り。それが僕らの意志ならば、それを生み出した一連のエネルギー最適化もまたそう呼ばれるべきであろう。つまり意志とは安定的状態への移行であり、乱雑さへの頽落であり、秩序はそれに抵抗するものではなくむしろその歴史の一ページにすぎない。僕らはなにも知らない、知りえないだろう。僕らはなにもなさない、なしえないだろう。起こっていることが起こっており、そこに私はいない。誰もいないし何もない。そしてそんなことは僕のささやかな生活になんの関係もない。

0815

 MSCOCO Challengeは難航しています。なかなかきれいにInstanceを区別できない。論文を眺めた限りでは、最近の個体認識可能なSegmentation用のアーキテクチャはおおむね、ある個体における各要素の相対的位置づけを予測したのちそれらを統合するという方針を取っている。僕はそれをもう一段抽象化できると考えていて、実際ある程度はうまくいくのだけれど、しかし状況が少し複雑になるとたちまちダメになってしまう。

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 この犬を個体として分離できたときは勝ったと思ったのだけれど、現実はなかなか厳しいようだ。うーん……。

0811

 りんごは実在するだろうか?いいえ、りんごはアトムの寄せ集めにすぎない。ではアトムは実在するだろうか?わからない、というのもアトムが実在するというときの「実在」は結局のところりんごの「実在」と同じ実在であるから。われわれに与えられている実在の文法は、りんごに実在を認めてしまうような性質のものであり、たとえ「りんごは実在しない」といくら言ってみたところで、その文法が変化するわけではない。それがそれとして見えるということが実在の意味なのであって、それ以上でもそれ以下でもないのだ。

 要素に還元するというのも一つの思考の仕方であって、別により現実に近づくという性質のものではない。もしそれがそれ以上の分割を許さないものであったとしても、それが〈実在する〉ということにはならない。

 イグノラムス・イグノラビムス。けれども僕は物自体としての世界と私を信じている。


 帰省しています。耳に入ってくる会話量がとつぜん増えたせいかすぐ頭が疲れてしまう。こんなところで生きていたら人は他人の言葉をノイズとしてフィルタするようなってしまうのではという気がするし、実際うちの人達にはその傾向があると思う。コミュニケイション過多というのは一つのディスコミュニケイションの形である。酔いによって聴力が下がり大声を張り上げる飲み屋の客達が思い浮かぶ。

0806

 現実をどこまで数学に近づけられるか。条件を厳しくしてゆけば実験は(正しい)数学的モデルに無際限に近づいてゆくという予感をわれわれは持っており、しかし無限に条件を厳しくすることはもちろんできない。ここで「無限に条件を厳しくする」ということは一体何を意味しているのか、と問いたい。それはただの文法的操作なのではないか。われわれは何らかの意味で文法的操作の極限を考えることができる。論理とか数学とかいった必然性の眷属たちはこのあたりの登場人物だ。たとえば床に書かれた円と猫の関係を考えてみよう。猫は円の内側にいることができるし、外側にいることもできるし、縁を跨いでいることだって可能である。だが猫が限りなく小さければ、「猫は円の内側と外側のどちら側かに存在する」とわれわれは言いたくなる。だがそのような事態はそもそも思考不可能だったはずなのだ。にも関わらず、「猫が大きさを持たなければ」という想定をしたときに「猫は円の内側と外側のどちら側かに存在する」と言いたくなるこの傾向性が、つまり気持ちが、論理を作り出していると言いたい。そのような極限を想定できるからといって、それが〈実在する〉とは言えないのだ。あくまでも言語は言語のうちで閉じていて、世界に触れてなどいない。ウィトゲンシュタインの「無限は限りなく大きな数などではない」とか「数列の次の項を決めるのは直観というよりもむしろ決断である」とかいった主張の背景には、おそらくそんな気持ちがある。


 シン・ゴジラを観た。昨夜は「明日きっとゴジラを見るぞ」という気持ちで寝たのだけど、朝になってみるとこれ自分には楽しめないたぐいの映画なのではという予感がむくむくと立ち上がってきてしばらく逡巡していた。いちおう池袋まで出てみたは良いものの、一度迷いはじめると他にやりたいことがぽつぽつと浮かんできて、そういう状況に僕は弱い。いったい自分は何がしたいのだろうという反省のループが思考を占拠して、それでしばらく立ち竦んでしまった。で結局このままぼーっとしているくらいならということで映画館へ行った。ちゃんと面白かったので良かった。

 ただインターネットの人々が絶賛しているほどには映画を楽しめなかった、というのが正直なところではある。僕が捻くれているからかとはじめは思ったのだけれど、しかし同じくやたら評価の高いガールズアンドパンツァー劇場版については自分も高く評価できているので、たぶんそういうことではないのだろう。おそらく個人と集団の関係の描かれ方についてちょっとしっくりこない部分があるのだ。なんというのかな、たとえばGuPの場合は大洗廃校の阻止という目的は各キャラクタが共有しているけれど、でもその動機はもっと(極端にと言っても過言ではないかもしれない)個人的なものだ。誰もが好き勝手に闘っている。それが僕のような非社会的な人間には心地よかった。少なくとも、物語の他の要素を邪魔しなかったのである。ところがゴジラの場合は、しばしば「日本のために」ということが言われる。それを聞くたびに、冷めるとまではいかないまでも、ちょっと(なにか違う……)と感じてしまう。別に日本が嫌いということではない。君たち本当にそんな動機でやってるの、という疑念がどうしても湧いてしまうのだ。だから東京の除染に光明が見えた際の尾頭さんの笑顔にも違和感があった。えっそんなキャラだったの、もっとこう単に面白いからゴジラ対策やってるんじゃないの、という感じの。うーん、やっぱり自分の頭がおかしいだけな気がしてきた、やめよう。

 画面構成とテンポについては、評判通り十二分に楽しめたと思う。「特撮にしては」という枕詞なしに素晴らしい映像だった。「CGスタッフが物理シミュレーションで考えるのに対し庵野監督は1秒24コマの静止画の連続として捉える」という話を前に読んだが、こういうことかとちょっと納得した。戦闘描写がいちいち格好いい。ガスバーナーみたいな(伝われ)熱線の描写も良かった。ちなみに自分はエネルギー兵器の描写についてちょっとしたこだわりを持っている。原点はもちろん(?)ジェノザウラーの荷電粒子砲である。

(0808追記)

 劇中、「私は好きにした、君らも好きにしろ」という台詞がある。ポジティブに解釈されているこの言葉だが、そもそも人間はつねに好きにしているはずなのである。われわれのあらゆる判断の根底には好悪がある。どんなに非主体的に見える行動であれ、その行動を彼に取らせたのは彼の好悪の基準なのだ。だから結局「好きにしろ」というのは「好きにしている風の行動をせよ」ということであって、つまり規範・態度の押し付けにほかならない。僕がゴジラに対して抱いたモヤモヤはたぶん、言われなくとも自分(を含めたすべたの人)は好きにしている、あなたの好みを押しつけるな、という辺りにまとめられるだろうと思う。もちろんこの台詞をもっとニュートラルに解釈し、登場人物がただ好き勝手やった結果としてゴジラが倒されたというふうに映画を見れば、とくに問題はない。ただそう解釈するにはちょっと演出がくどすぎたと思う。味付けの濃すぎる作品は少し苦手なのだ。

0805

 「よくわかりません」という祈りの声だけが虚空を満たしている。

 計算はそれを実行する基体に依存しないということが、われわれが世界に触れられないことの証明になりはしないか。証明というのは嘘で、いつものことながらこれは喩え話なのだけれども。言葉を換えるとつまりこういうことだ。「解釈」は世界に触れているか。もちろんなんらかの意味で触れていると信じること、つまり世界が在るということを信じることはできる。しかしわれわれに与えられるのはどこまでも解釈であって、解釈こそがわれわれそのもので、つまり一元的な〈感じ〉があるのにすぎないという意味では、やはりわれわれの手は世界に届かないというほかないような気がしている。計算機の上で実行されている計算は、計算機そのものに触れない。たとえ触れているように見えたとしても、実際には計算機に触れられるのは計算機自身だけなのである。同じことはきっとわれわれについても言える。ここまで書いてふと気付いたのだけれど、これは自由意志は存在しない、少なくともわれわれには帰属しないという主張と同じだ。

 しかしだからといって失望する必要はない、とも思う。たしかにわれわれの心は世界に触れていないけれども、われわれ自身は世界の部分なのである。


 「このように考えざるを得ない」圧が一定以上に高まってくると、言葉はだんだん硬度を増してきて、互いに押しのけあったり、ぶつかって壊れたりするようになってくる。こういう高圧条件下での言語使用が、これまで「理性」という言葉によって言い表されてきたのだろう思う。しかしそうした圧力を作り出すのは結局のところ気持ちであり印象である。論理に人を説得する力はない。すでに論理に説得されている人だけが、論理によって説得されるのである。

 言葉に高圧をかければ相転移が起こって真理が現れるのではないかという思い込みが在る。しかしそれは思い込みに過ぎない、と僕などは思う。さて自分は今いったいどこに立っているのか。


 最近バイト先に入社してきた統計物理出身の人とよく馬鹿話をするのだけど、君が金子先生と話したことないのは残念だと言われた。もしかして僕にはその手の適性があったのかもしれない。ただ確かめたい気持ちはそれほどない。

 MS COCO Challengeに出ます(たぶん)。


 昔は素朴に真理を信じていたから異常な基礎付け主義者だったけれども、最近は文法主義者に鞍替えしたので、基礎付けというものにはそれほど重きを置いていない。身体に最も馴染みやすい操作を「基礎」として考えるくらいがちょうどよいと感じている。だいたい、基礎付けなんてものはある程度分野が発展した後に一呼吸置く感じでなされるものと相場が決まっているのである。基礎とはすべてをその上で考えねばならないような種類のものではないのだ。

 本質ではなく使いみちを見出していこう。

0801

 ヒューム『人性論』を読んだ。「世界について知ることはけっきょく自分の中にあるものを知ることに過ぎないのだ」というこの失望を、はるか昔の哲学者がすでに味わっていたということ。逆説的ではあるけれど、なにか勇気付けられたような気持ちになる。とにかく、すごい本です。

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0729

 ある状況においてそのルールが適用されうるかいなかを決定する必然的な規則は存在しない。たとえば法律はそれ自体で人を罰するものではなく、それを適用する仕組みがあってはじめて機能する。そして「ある状況」はつねに恣意的だ。この世界のカテゴリには「殺人」の項目はなく、ただそれを殺人とみなすわれわれからしてそれが殺人であるのにすぎない。ゆえにルールは説得と納得の俎上に成立する。ある意味で、ルールとか正しさとかいったものは社会に落ちているバールのようなものだ。それを道具として使えることを知っている人が、それを使って敵を殴ったり己を律したりするのである。もちろんバールそれ自体は誰かを殴ったりしない。

 ルールが道端に落ちているバールのようなものであることを誰もが知ってしまったとき、ルールは(今までのような意味では)ルールでなくなるだろう。というのも、そのとき人はバールで殴られることに痛みを感じなくなっているだろうから。はやくそうなればいいのにと思う。


 自覚とか反省とかいった事態について考える。結局のところ自覚もまた無自覚になされるのであって、そういう意味では自覚的な行為と無自覚の行為に本質的な違いはなく、たんに奥行きの差が少しばかりあるのみである。奥行きのある存在でありたいと思う。世界に対しよりきめ細やかに応答すること。


 風を感じたときつねに「この風は私が吹かせた」と感じる人がいるとすれば、彼は実際に風を吹かせたのだ。どちらが先かは問題ではない。というのも、行動決定と意志の自覚では、前者のほうが先に起きていることが知られているのだ。そしてこの喩え話は「風」を「思考」や「知覚」に置き換えても成立する。

 この喩え話は4年くらい前にふと思いついたものだけれど、わりと気に入っている。自分の輪郭があやふやなものであることを思い出させてくれるから。この喩え話を内向きに適用していくと、〈私〉はどんどん収縮しついには大きさのない点になる。また外側に向かって押し広げていくと、〈私〉はどんどん拡大しついには世界に一致する。独我論実在論が一致するゼロポイント。まあただの喩え話なんですが。


 あまり言葉を使わない生活をしているせいか、内面がますます視覚的になってきている。かつては言葉によって把握されていた気持ちが、いまでは風景として見えるようになっている。「意識とは自分が話すのを聞くこと」というのはデリダの言葉らしいけれども、僕の意識は「自分が描くものを見る」ことになりつつある。言葉を持たない生き物は、たぶんこんなふうに考えているのだろうと思う。

 思考というものは、抽象化してしまえば、それがそれ自身に影響されることによって進行してゆくような形をしている。言葉で考える人は、自分の言葉を聞くことが次の言葉を促すような形で考えを進めてゆくのだろうし、イメージで考える人は、自分の描いた絵を見ることがその絵に変化をもたらすような仕方で考えを進めていく。媒体になるものはおそらくなんでも良い。触覚や嗅覚で考える人もあるのかもしれない。おそらくもっともコンパクトなのは言葉なので、言葉で考えるのが今のところ飛距離を稼ぎやすいのだとは思うけれど。で、この媒体がたとえばVRなどで表現できようなったとしたら、人間の思考はどこまでいくだろうかと考えていた。言葉より抽象的で、イメージよりも具体的な思考が、どこまでも続いてゆく。より高度な自我のかたち。そんなことができるようになるかもしれない。もちろん、すでに心の固まってしまった僕には無理かもしれないけれども、新しく生まれてくる子どもたちならあるいは。とか。

 というか言語というのは本質的にヴァーチャルリアリティである。神林長平的な発想。


 「言葉を理解するのに言葉は必要ない」ということはとても重要だと思う。


 ニューラルネットはエネルギー最適化問題と同じ形だとか言われているけれど、生物が効率よく代謝するために今まで進化してきたのだと考えればこれはすごく自然なことのように思える。つまり僕らの知能はちょっとひねくれた代謝系なのであって、それは迷路を解く粘菌の素朴な延長線上にある。適当なことを書いているのでどっかからか槍が飛んで来るかもしれない。

 知能というものは究極的には楽をする能力として測るのが良いのかもしれない。じっさい周囲を見渡せば頭の良い人ほど怠け者である。


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