Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0925

 論理定項がこの世界に実在するかという議論において、若きウィトゲンシュタインはラッセルに対し「この部屋にサイがいないことを証明せよ」と食ってかかったという。「否定」のような論理定項が実在するなら、それを見せてみろというわけである。結局ラッセルはウィトゲンシュタインを説得できなかったようで、論理哲学論考においては論理定項は「操作」という概念に回収されている。たとえば否定は、論理空間における意味領域の反転という風に。

 否定についての私見を言わせてもらえば、「サイがいる」という認識が許されるのであれば、たとえば「サイのいない部屋がある」だって同じく許されねばならないだろうと僕は思っている。どちらも同じく直観的認識であり、あるいはひとつの宣言である。無は有の裏などでは決してない。サイの存在という認識を生み出すのとまったく同じ働きが、サイの非存在をも生み出している(ように僕には見える)。「無意味」もまた積極的な観念であると自分が言うとき、念頭にあるのはこういう考えである。


 夕方、高校の部活の同期たちと食事をしました。相変わらず言葉の通りが良くて安心する(同時に自分は相変わらず頭の回転が遅いなとも思った。遅さゆえにできることもあるのだけど)。ここ数年会っていなかったにも関わらずそれがやれる相手というのは貴重だと思う。本当に久しぶりになにかを力説した気がしている。思うに、リズム良い反論が返ってくるというのが自分が心地よく会話できる条件なんでしょう。関西出身者の傾向だろうか。振り返ってみると東京に来てからも僕は関西出身の人間と好んで付き合っている気がする。あまり気にしたことなかったけど。

0924

 記号とは対象を代替するものではなく、むしろ人間を操縦するための特殊な刺激であると捉えたほうが筋が良い気がする(これも一つの喩えだが)。少なくとも「計算は予測をしないが、君は計算によって予測をすることができる」というウィトゲンシュタインの言葉の意図は、こう考えることでよりはっきりすると思う。

 たいていの認識は正当化を必要としない。目の前に林檎があることを証明する必要がないように。正当化が求められるのは、認識枠組みそれ自体の在りようが問題になる場合である。正当化はある体系においてなにかを示すものではなく、新しい視座を提示するものであると言いたい。それはたとえば、ネッカーキューブのある頂点を指差して「ここに注目すると下から見上げた立方体に見えるよ」と教えることに似ている。

0923

 DeepMindのsynthetic gradientsを試してみようと思っていたのだけど(weightの更新にbackwardを待たなくて良いのは魅力的である。しかし本当にうまくいくのか?)、Chainerで書くのは結構面倒そうだったので勉強がてら一から小さなニューラルネットを書いてみた。今のところReLU、Conv2D、Linear、Softmax関数が実装されていて、mnistの学習ができることは確認している。10時間ほどぶっ続けで作業したわりに進捗は微妙である。もっと精神を加速していきたい。

 目的は、細かい実験を手軽に行うために必要十分な枠組みを用意しておくことである。synthetic gradientsみたいな仕組みを試してみたり、妙なoptimizerを試してみたりといったことが楽にできればと思っている。たぶんTheanoやTensorFlowといった数値計算ライブラリを使えばもっと上手くやれるんだろうけれど、僕みたいに抽象化の苦手な人間は、全体を細部まで把握していないと何が起こっているのかよくわからなくなってしまうので。


 僕の行動原理は「違和感を解消する」ことただそれだけなんだな、と悟った。自分の描いた絵に対する違和感が僕に新しい絵を描かせるし、文章も同じ。哲学的なことを考えるのも、我々のあらゆる表現形式が「私と他者の非対称性」を表現できないことに違和感を覚えていたからだ。もちろん違和感を解消することは人間の一般的動機のひとつであると思う。けれども自分はどうも、それ一本に依存しすぎているきらいがある。直接的に気にならないことが心底どうでもよいのだ。それゆえ僕は一から新しい概念を習得するということが出来ない。知らないことについては気になりようがないからだ。ただしある違和感を解消する過程において必要となった場合には、未知の概念もわりと楽に習得できる。ただしたんなる道具として。たいていの場合、その理論的背景に興味が及ぶことはない。それが十全に機能している限り、そこに違和感はないのだ。で、こういう人間はいったいどうやって人生をやってゆけばいいのだろうかと考えていた。たぶん適切な違和感と足がかりが与えられ続ければ、再発明するという形で僕は学ぶことができると思う。そうした分野が既にあると知る前から、心の哲学における幾つかの概念を知っていたように。ただしそれはあまり効率的なやり方ではないし、半ば博打のようなものである。違和感を持てない対象に対する僕の学習能力は、おそらく軽い学習障害のレベルにある。なんとかしたいとずっと思っている。しかし諦めたほうがいいのかもしれない。

0917

 自分の気持ちというのもまた一つの言語ゲームである。気持ちに実体などない。生活の各場面において気持ちとして扱われる"表現"こそが気持ちの実態なのであって、その背後に本当の気持ちが控えているというわけではないのである。我々が自分自身を観察したとき、自身の行為や情動の背景に推察される「本質」という幻想が、自分の気持ちの正体だ。それは実在しない、ただ見出されているもの、ただそう書けただけのものにすぎない。自分の気持ちを知るということは、つまり内観とは、自分を(ある意味他人事のように)解釈することだ。そしてその解釈が「自分の気持ち」として機能する条件とは、それが自分の気持であると言ってみて(自身も含めて)誰も違和感を覚えないこと、ただそれだけである。脳の内部でどのような計算が行われているかなどはとくに関係がない。摩擦なく気持ちの言語ゲームに参加できていること、それだけが気持ちが気持ちであるための条件なのである。ただしそのゲームに参加するためには、ゲームに適応的なかたちで自分を解釈するためには、一定の訓練が必要である。それをきちんと修了しないと「自分の気持ちがわからない」ということになってしまう。何を書く”べき”かを知らないうちは読書感想文をうまく書けないのと同じく、自分の気持ちを表現する仕方を知らないうちは、そもそも自分に「気持ち」などないのだ。

 だから「本物のエゴ」というのも結局、そのようにみえるものという以上のものではなく、偽物のエゴとの間に境界線を引けるようなものではないということになる。前に書いたけれども、「好きにしろ」というのは「好きにしているふうに行為せよ」という規範の押しつけなのだ。で、この「主体性」という規範は、これはただの想像なんだけどたぶん人類の身体的構造とか人類黎明期の集団の形態とかに適応的な行動規範なんだと思う。それがここまで複雑になってしまった人類社会において通用するかというと、ちょっと疑問だ。サリンジャーの言うようにたしかに今の世界はいやらしいかもしれないけれども、でも誰もが「主体的」に行動するようになったら、地球はもたないかもしれない。みみっちくていやらしい最適化が、肥大した社会をなんとか持ちこたえさせているのかもしれない。僕の美的感覚に従えば、そうまでして世界に維持される必要はあるのか、いっそこのあたりで潔く散っておくべきなのではという気分にもなるのだけれど、これもただ主観的な美意識の問題にすぎない。たんに僕が社会のいやらしさを美的なものとして感じられるようなればそれで済む話である。じっさい多くの人たちは、僕がつまらないもの、いやらしいものと感じる物事のあり方を、素晴らしいものとして扱っている。その間に優劣などない。むしろ社会進化の過程を考えれば、彼らのほうが僕よりずっと進歩的な人間だとも言えるのである。僕も進歩すべきなのだろうか。しかしどうやって?


 理解とは、与えられた感覚入力に対して適当な行動を決定できるよう、世界の構造を推定することだと思う。しかし一般にその推定はきわめて困難であって、その困難への一つの対処法が言語である、と思う。たぶん生物は外界が単純な確率分布の混合でできていると仮定していて(あるいはそれが”単純”の意味である)、そこで外界を理解することはその要素となる成分を抜き出すことになるわけだけれども、それには計算量的な限界がある。だから動物は危険な外敵や美味しい食料を見出すことはできても、宇宙の原理や自己の本質に思いを馳せたりはしない。というのも彼らにとってそれらはノイズでしかないのだ。一方で人類は、あるときは単純なものとして扱った分布をさらに要素に分解したり、あるいは複合的な分布をより単純なものとみなしてより複雑なものを考えたりする。それが可能になっているのは、言語がある意味で「フラット」であることによる、と思う。音の連なりや視覚的記号として考えたとき、「宇宙」も「ねこ」も同じくひとつの単語なのであって、そこにおいて宇宙とねこは対等である。一度言葉にしてしまうことで、スケールの問題を無視してしまうことができるし、ある領域で用いた方法を別の領域に転移することも容易になるのだ。たぶん動物にはこういうことはできない。という妄想。(参考:http://mogami.in.coocan.jp/diary/d0811.html#271


理不尽にやると上手くいく - レジデント初期研修用資料

 社会の信頼性が上がれば上がるほどギリギリのラインを攻めることが容易になるという指摘を読んで「たしかに」と思った。エゴの話とも通じるかもしれない。


 MSCOCOは結局AP=0.13くらいしか出なかったのでsubmitを諦めた。敗因としては、1.指定された評価方法でモデルを評価してみるのが遅れた、2.大規模NNの学習経験不足、3.一般的なアルゴリズムに対する知識不足、4.細部が雑だった、5.先行研究の把握が足りてない、6.計算力不足、などが挙げられると思う。生成されたinstance maskの見た目はまあまあだったんだけれどね。ちょっと悔しい。

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 らくがき。屋久島に行きたい気持ちがある。

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0913

 何もしたくないときに何もしないでいられる人生にしたい。

 僕らは"ほんとう"の世界については何も知れないだろうけれども、僕らが描いた世界(あるいは世界が描いた世界に言ってもよいかもしれない)についてならば、限りなく精密に知りうるだろう。僕らは世界の意図を知らないが、世界の意図した世界の意図を知っている。それで十分ではないか。

 「この世界のいやらしさの半分くらいは、自分たちの本物のエゴを用いていない人々によって生み出されているんだ」というサリンジャーの言葉をときどき思い出す。自由と責任、あるいはエゴと処刑を対置することによって運営されているこの社会は、エゴを放棄するという戦略に対して本質的に脆弱性を抱えているのだ。

0831

 メインPCが突然故障したので修理を依頼していたのだけど、今日業者が引き取りに来た。調べたところわりと頻発している不具合らしく、購入前の調査が甘かったなと反省しつつ保証期間内に故障したのは僥倖だったなと思う。ただしばらくメインが使えないのであまり重たい計算を手元でやることができない。ちょっと困る。


 音声が空気の震えであり文字がインクの染みであることからわかるように、言葉はひとつの事実である。だから事実と言葉の記述的関係は、実際は事実と事実の対応関係であり、この対応関係を生み出すものが論理である、というのが前期ウィトゲンシュタインの哲学だった(と僕は認識している)。世界はあまねく論理的であり、事実と事実は論理的関係にあって、それゆえ言葉は世界について語りうる。例えば赤色と青色とが視野の同じ位置を占めることはないということは論理的制約であり、つまりここでは青色が赤色について〈語って〉いるのである。これと同じことが、つまり青と赤との論理的関係に類比的なことが、言葉という事実と現実という事実の間に生じており、それゆえに言語は現実に触れている、これが前期ウィトゲンシュタインの言語観だった。ところが後期に至ってウィトゲンシュタインはこの考えを捨てる。論理的関係は文法概念に回収され、すべてはゲームになった。言語はひとつの事実であるという基本線はそのままだが、事実と事実の関係は、実在論的な論理に基づくものではなく、ただ「文法的なもの」とされたのである。ここにおいて言葉は世界について語るものではなくなった。言葉と事実の関係は、事実と事実の関係と同じく、「そのように見出される」だけのものになったのである。そして事実と事実の関係が文法的であるということは、ある事実を世界から切り抜く輪郭線もまた文法的であるということを意味し、ゆえに「本質は文法の中で述べられている」という哲学探究の言葉へと繋がる。

 ところでこの「本質はゲームである」という認識は、井筒俊彦が「意識と本質」において禅のところで述べていた「文節Ⅱ」に相当すると思う。禅が無分節の境地を経て体感的に分節Ⅱに辿り着くのに対して、ある種の哲学者たちは思考でもって分節Ⅱを推定する。ちょっと面白い。

 ヘッセ「シッダールタ」を読んだのだけど、作中でこんなことが言われていた。「知識は教えることができるが、知恵は教えることができない」。知識というのは共有された特定の文法における語りであって、知恵は文法そのものの更新であると考えるとかなりしっくりくる。

 ところで言語ゲームという思想もまた特定の言語ゲーム上で語られていることに注意せねばならない。だから無分別智も、それが主体の選択に影響を及ぼす以上は〈真理〉などではなくひとつの「生きる知恵」にすぎないのである。「自分は誰かの役に立っている」という認識が励みになる人がいるのと同じ意味で、「一切は空である」という認識が助けになる人もいるというただそれだけのことなのだ。煩悩という壁を打ち砕くつるはしが無分別であって、これは例えではない。煩悩も言葉もひとつの事実であるという意味では。

 「真理は言葉で記述できる」ということは「真理は眼で見ることができる」というのと同じくらい馬鹿げている。


 ふとニューラルネットの解説記事でも書いてみようかなと思って、すぐに思い直した。MSCOCOからの逃避行動であることを悟ったからである。もう時間も残り少ないので、やれることをやるほかない。がんばる。


 参考文献として水本正晴「ウィトゲンシュタインVS.チューリング」を買った。ウィト氏の数学観を大きく扱った日本語の本のうちわりあい軽く読めるものはこれしかないっぽい。主題が認知とかAIとかの話なので人工知能の棚に置いてあったのだけど、周辺の本を見てなぜだかちょっとつらい気分になった。

0827

 物理学が現象を高精度で予測できることは、すべては解釈でありゲームであって世界と直接関わるものではないという認識に相反するように思われる。われわれは世界について何か本質的な知識を掴んでいるから、それができるのだと言いたい気持ちになる。とくに数式や言語といった「抽象的」な形式をいちど経由することが、その気持を強める。けれども考えてみれば「抽象化する」という営みも一つの物理現象なのであって、だから物理学が砲弾の射線を予測できるということは、本質的には「一発目の砲弾が二発目の砲弾の射線を予測している」ことと同じなのだ、ということを思う。予測の精度を増すことは、一発目と二発目の発射条件を限りなく近づけることに対応している。ところでここで「一発目の砲弾が一発目の砲弾の射線を予測している」と言ってみても別に構わないということが重要であって、そういう意味では、物理学の予測精度に際限はない。言い換えれば、予測精度が無限に向上しうるということは、物理学が世界に「触れている」ことを意味しないのである。

 物理学は世界が時空的な繰り返しの構造をもっていることを前提している。太陽について成り立つことはシリウスでも成り立つし、去年起こったことは今年も起こりうる。だが一方で真の繰り返しなど起こるはずがなく、ゆえに繰り返しはある視点から見て繰り返しであるのにすぎない。同一性の問題と同じである。生き物という枠組みから見れば、ふたつの事象を同一のものとして扱うのは(マッハ的にいえば)生命活動における経済的な理由によるのであって、つまりそれが視点・パースペクティブということになるのだが、それらをひっくるめた宇宙的な枠組みから見れば、パースペクティブもまた生じては消える瞬間的な安定状態にすぎない。世界の分節化というわれわれの営みもまた、宇宙からすればエネルギーの淀み・偏りでしかないのだ。そしてその偏り方に際限がないという意味おいて物理学は際限ない予測精度を獲得しうる。それは結局のところ世界に対する人間性の押し付けなのだけれども。