Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0614

 強化学習かなんかでだんだん賢くなってゆくAgentをみんなで討伐するMMOとかあったら面白いと思う。はじめのうちはただ奇怪に蠢くだけだったAIが少しずつ洗練された動作を獲得していき、いつしか誰にも倒せない怪物になっている。そうなったらサービス終了。人類は人工知性に勝てるか。

 

0613

 わたしとあなたの違いは、言葉においては表面的なものにすぎない。〈このわたし〉を数多の人格から区別する能力を言葉は持っていない。言葉は本質的に対称的だ。だから誰かを殴りつけるために放たれた言葉はたいてい自分をも殴っているし、外敵を拘束するために用いられた言説は同時に自分をも縛っている。語り口を研ぎ澄ませば研ぎ澄ますほどその傾向は強まる。論理的兵装とそれを構成するひんやり硬い言葉の歯車たち。これまでにどれだけの人々がその暴発によって死んできたことか。言葉を使って身を守るということの危うさ。

 今日も今日とてstan職人。だんだん楽しくなってきました。間欠的不規則報酬。

 対象がどういう形をしているか人はほとんど気に留めない。形は対象を対象として編み上げるための足掛かりであって、対象が見えている限りその形に注意が払われることは少ない。だからものを精確に見ることはとてもむつかしい。そのためには一度組み上がったゲシュタルトをばらす必要がある。絵を描くということ。

0612

 6月だしどうせ暑いだろと思って半袖で過ごしていたら身体を冷やしてしまった。ちょっと風邪っぽい。

 シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵」を読んでいます。正直なところあまり好きな本ではない。観念に雁字搦めにされた思想、極度に自由度の低い知性、そういう印象を受ける。なんというかこう、読んでいて痛くなってくる。人のこと言えるのかというと微妙なところであり、なので時折ニヤッとなるような記述に出会うことはある。「美しく善きものすべてが自分への侮辱と思えてくる」とか。あなたも完全な球体になりたかった人なんだね、みたいな。

 ホームから駅構内へと続く階段を下りながら前を歩く人々をなんとなしに眺めていると、見覚えのある後頭部を見つけた。金曜の朝にも同じものを見たのだ。最近そういうのがちょっとづつ増えてきている。同じ時間、同じ経路で出社していると、流れ行く人々の中に少しずつ見知ったものが生じていく。こうして生活は淀んでいくのだ。

0610

 平日の疲れが溜まっていたのか夕方くらいまでぐったりしていた。それからふと海を見たくなってお台場まで行ってみる。東京湾は田舎育ちの僕が想定するような海とは全然違っていてその点では物足りなかったけれど、いつもは侵食する側である海が人間のつくる都市に埋め立てられている様子を眺めるのはそれはそれで感慨深かった。最近、都市というものを意識することが多い。それはたんなる人間と建物の寄せ集めではない。

 こんなもの(http://watanabe-www.math.dis.titech.ac.jp/users/swatanab/sing_matome.html)を見つけた。こういう話はちょっと気になる。「人間が理解できる現象であるということと繰りこみ可能であることは、ほぼ同義かもしれません」ほんとだろうか。

0609

 「すべては現象にすぎない」という表現がもつ力こそわれわれが真に抵抗すべき敵ではなかったか。その表現のもっともらしさを支えているのもまた他の諸現象であり、だから「すべては現象にすぎない」という表現にわれわれの生活から意味を剥奪する特権的権能が与えられているわけではない。超越的なものがあるとしたらそれはわれわれの生に一切影響しないのだ。

 セルフネグレクトという概念を知る。僕にはかなりこの傾向があると思う。最近ますます生きることへの意欲が薄まっている。そして生きる意欲が薄いがゆえに言えてしまう言葉たちがさらにその傾向を加速させていく。まずいかもしれない。

 ときどきやってくる発狂して暴れまわりたい衝動を上から目線でいなすたびに神経が少しずつ摩耗していっている感じがある。はー。

 仕事は他社との合同勉強会。単語の分散表現についてちょっと面白い研究を知る。しかし自然言語処理を「正しく」やるには人間そのものにかなり近づく必要がある感じするよね。

0608

 仕事終わりに終わった案件の打ち上げ。ロシア料理を食べる。美味しかったけどワインで悪酔いしたのか精神の調子が良くない。最近気づいたのだけど僕はお酒があんまり好きではないようです。思考力が落ちるし味もよくわからない。ワインの味とか料理の機微とかもっと分かるようになれば人生は豊かになるのだろうか。

 知識も気持ちも僕の中にはとどまってくれない。かなしい。

0607

 意味不明に疲れています。重力が2gくらいある気がする。呼吸がとても浅くなっているのに気付いて意識的に深く吸うようしだしたらちょっとマシになったような。思い込みかも。

 仕事は相変わらず暇なので今日はstan職人ごっこ。確率的プログラミングはよくわからない。ニューラルネットのほうがよほど素直なものに思える。解釈可能性ってわりと高コストよね。

 言葉を発しながら別のことを考えるのと同じように、考えごとをしながら考えている自分を眺める、ということがわりと出来るようになってしばらく経つけれど、それでわかったのは、(他のあらゆることがそうであるように)自分の思考はただの確率過程にすぎないということである。知覚と記憶が混じり合いながら、ときに秩序だって、ときに無作為に思考の樹形図を枝刈りしてゆく。いくら目を凝らしたところで自分に固有の意志なんてものは見えてこない。ヒトの形に凝集されたランダムネスが無数の選択肢の中に染み渡っている。僕にできるのは、見ること、聞くこと、感じること、ただそれだけで、そう思うと人間というのはいかにも窮屈なものだけど、その身じろぎひとつできない牢獄の中で与えられる感覚の中には、自由とか開放感とかいったものも含まれているからとくに問題は生じない。

 考えることは川を作ることに似ていると思う。湧き出した水は地形に沿って流れを作る。水はただ斜面を下ることしかしないから、川の流れを変えるには地形を弄らなくてはならない。しかもその地形がどうなっているかは、実際に水を流してみるまでわからないことが多い。だから目的の場所まで川を繋ぐにはたくさんの試行錯誤が要る。思いつけないことを直接思いつくのは不可能だ。ただし無駄な試行錯誤を減らす方法はあるはずで、最近いろいろ考えている。