暗い情動を鍵盤にぶつけてもピアノが鳴らすのはいつもと変わらない音で。そのことに安心すればよいのか無力感を覚えればよいのか、僕にはまだわからない。
1023
久しぶりの晴天が本当に嬉しくて、人は天気のことでこんなにもよろこべるものなのかと吃驚した。台風一過の青空は最高です。
1022
ここのところ雨の日が続いていて気分もじっとりしている。明日は台風まで来るそうだ。勘弁してほしい。
ニューラルネットは複雑な変換を学習できるけれど、ネットワークを構成するニューロン自体の振る舞いはシンプルである。各ニューロンはネットワーク全体が何を計算しているのか知らない。これと同じことが人間の集団にも言えるのかもしれないなと思った。たぶん組織の上に実装された知恵というものがあるのだ。あれほどシンプルで粗雑な人間たちによって運営されているにしては、社会はうまく運営されすぎていると感じていたけれど、べつに各構成員が全体を把握している必要はないのだ。むしろ一人の人間が組織全体を把握し管理してしまったら、その組織のもつ複雑さは人間個人を超えるものにはならないだろう。誰にも全容は理解できていないが、何故かうまくいってしまう。そういう状況をつくるのが大事なのである。たぶん。というかこれって人工知能に期待されている性質と同じだよね?
1019
これ以上疑えないからという理由でなにかを信じるのはやはり不誠実な態度だと思う。懐疑は知性のネガティブな側面などではまったくなく、それ自体ひとつの創造的営みである。だからこれ以上疑えないことを理由にある命題が真であると主張することは、自分が100メートルを10秒で走れないからといってそれが人類についての一般的な真理であると主張するのに似ている。これ以上疑ってもご利益がないから、ならいいと思うのだけど。その信仰は本質的には懐疑と関係していないから。
最近スキゾイドパーソナリティ障害に興味を持っていろいろ調べている。自分はどこかおかしいという意識がずっとあって、さまざまな概念を自身に当てはめてきたけれど、今のところこの解釈が一番しっくり来ている。それほど重度なものではないのでとくに問題を生じることもないだろう。ああ、集団の規範を内面化する能力が極端に低いのはちょっとどうにかしたいかもしれない。コミュニティのノリにうまく乗っかれないのはすでに諦めてるからよいのだけど、問題は学問や技術の体系だって集団の規範であるという点である。
だいぶ前に読んだ岡田尊司の本の中で、SPDの例としてウィトゲンシュタインが挙げられていたのを思い出した。でこれは最近知ったのだけれど彼の母親は異常に過干渉な人物であったようだ(ちょっと笑った)。僕は自分を彼に重ねすぎだろうか。
0918
なにもしないまま時間が過ぎていくこの感覚を忘れかけていたことに気付いてぞっとしている。なによりも慎重に執り行われるべき、自分が自分であるための儀式が廃れていく。現在は数直線の一点に成り下がり、混沌は整理され、空白は予定で埋まり、はにかみは気恥ずかしさに変わる。詩人はそうやって死ぬ。ひとまとまりの暇さえあればいつだってここに戻ってこられると、そういう自分への信頼はあるのだが、その暇のほうがどんどんなくなっていく。行動予定表の合間を縫って時間を作ってみたところで、それでは意味がない。暇は与えられるものでなくてはならない。つくられた時間は退屈を生まないから。生きることが長い暇つぶしであるのなら、暇であることを忘れられたそれはなんだ?
C.S.パースbotが「真理は、もしそれに基づいて行為するならば、我々が目標とする地点まで我々を運んでくれるという点においてのみ偽りから区別される」と呟いているのをみて少しうれしくなる。われわれは宇宙の使いみちを知っているだけで、宇宙について何かを知っているわけではない。
今日のような青空を見るために生きているような気がする。
0917
言葉を用いて相貌を伝えることは出来ない。言葉は相貌の上に築かれたものだからだ。林檎の相貌を知らない人に、いくら言葉を尽くしたところで、実際に林檎を目にしたときの「その」感じを伝えることは不可能である。もちろん林檎の相貌を構成する要素的な相貌――丸さ、赤さ、空間的な延長など――をすでに共有している場合は、それらを組み合わせることによってある程度までは伝達可能であるけれども。赤ん坊が言葉で教わることなしにさまざまな相貌(概念)を獲得していくことからも明らかなように、相貌の獲得は多くの場合、言葉の外側で行われる。その取っ掛かりとなるのはおそらくある種の予測である。一瞬後の未来を予測するためには、外界をどのように構造化すればよいか。この問いを解くことがわれわれに世界と対象を与えるのだ。空間的に強く結びついた領域には一個の表現を与えたほうが都合が良い、という風に。(ただしここでいう「未来」や「予測」といった概念もまた言語ゲームを支える自然において〈未来〉を〈予測〉するなかで得られたものである。と僕は思う。)
ではわれわれは言語によってなにを伝えているか。大抵の場合は、すでに共有されている相貌の組合せ方である。知らない料理のレシピは新しい情報ではあるが、それを構成する要素――切る焼く、食材など――はすでに知られている。学ぶー教えるという表現が通常意味しているのはこの種の伝達である。この種類の伝達は、ある意味では、真に新しい知識を伝えてはいない。
だが言語によって新しい相貌を学ぶことが一切できないかというと、そうではない。それはその言葉の意味するところが理解できないとき、すなわち言語が言語として機能していないときに起こる。意味の分からない言葉、それは空気の震えやインクの染み以上のものではないのだが、それらによってどうにかして予測(発話者の振る舞いや文章の続きなど)を為そうとするときに、その空気の震えやインクの染みからどのような意味を読み取る”べき”かが推定されるのである。
知識を得ることには興味がないけれど、新しい相貌を獲得するのはけっこう好きだと思う。見えなかったものが見えるようになる感覚。世界に未知の輪郭線を書き入れること。