Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

1231

 文章を読むと、僕の頭を使って、他人が考えて他人が納得する。そいつが出ていくとなにも残らない。そいつが頭のなかにいるうちにそいつと話をしないといけない。

 理解するということは、ある状況における適切な振る舞いが分かるということで、ここでいう適切な振る舞いとは、説明ができることであったり実装できることであったり使い処が分かることであったりする。繰り返し書いていることだけれど、静的な理解、それが生じればある概念のすべてを体得したことになるような理解なんてものは存在しない。最近、そのことをようやく肌で認識できてきたような気がする。

 それでは皆さん良いお年を。

1229

 人間が「決断」をするのは、その選択の結末が予測できない場合であるということに気がついた。期待される効用が明白である場合には、我々は選ばない。ただ自然にそうするだけのことである。我々が選択と決断を迫られるのは、そこに勾配が見えないときだ。有限な身体に幽閉され、様々に移ろいゆく状況に日々晒され続けている僕らは、報酬が予測できない状況にあっても一定期間内になんらかの行動を選択しなくてはならない。そういう場合に僕らが用いるのが「決断」という形式であり、それを社会的に包括するのが自由意志という観念である。

 いくら検討を繰り返してもそれを否定することはできなかったということを根拠に、形而上学的概念の妥当性・一般性を主張する人がいるけれども、そういうやり方を僕は受け入れることが出来ない。そこに現れる一般性は紛い物にすぎない、と思う。帰納は分布をとがらせるだけで、その先端が世界の限界を突き破ることはない。

1222

 寒い屋外で温かいブラックコーヒーを飲みながら明治の板チョコを齧るのが好きです。謎の幸福感がある。こういう組合せをもっと探っていきたい。

 アイデンティティは自分自身の振る舞いや能力についてのモデルみたいなものだと思う。たとえば地面に出来た幅一メートルくらいの裂け目を見て、このくらいなら飛び越えられそうだなと判断する、その判断はアイデンティティを内/外挿して行われる。「自分は1メートルくらいなら幅跳びできる」という命題はアイデンティティそのものではない。むしろそうした命題を必要に応じて産出する予測モデルこそが自己像の源泉なのであって、そういう意味でそれは安全装置であり枷である。

1217

 コミュニケーション能力を軽んじる人たち、コミュニケーションしないならそれはそれでべつに良いと思うんだけど、そういう人たちはたいてい話をすること自体は非常に好きで、延々と自分の好きな話題を喋り続けていたりする。コミュニケーションしないでほしい。これは反省も込めてなのですが。

1126

 世界の縁でランダムウォーク

 たとえばx>0という条件が与えられたときに「ああxは-1ではないんだな」と思うためには、単なる論理的思考とは別の飛躍――つまり「x=-1となることがあるか?」という問いを立てること――が必要になる。思考においてもっとも重要なステップがここにあると思う。たしかにx>0という条件は多くの情報を含んでいるのだが、そのままだと静的に過ぎて次の方向を指し示してはくれないのだ。ウィトゲンシュタインの言葉を借りるなら、そこには摩擦がない。だから人がその上を歩いていくためには、ルールからは導くことの出来ない恣意的な摩擦、偏り、個別化、静かな水面を波立たせる意志の力が必要になる。与えられた推論過程に納得するだけでは何もわかったことにならない。ルールは世界の限界を定めるだけで、世界の中でどのように歩いていけばよいかを教えてくれるわけではないのだ。僕らは決断を――つまり問いを立てることを――しなくてはならない。そして筋の良い問いを立てるには、特定の仕方で訓練されねばならない。その訓練は言葉の外側でなされる。もちろん問いの建て方をある程度言語的に定式化することは出来るだろう。それが知識を体系化するということである。けれどもその最終層においては、やはりなんらかの飛躍が必要になると思う。その飛躍は、思いつこうと思って思いつけるものでは決してない。それはわれわれの祈りに対して天が与える言語を超えた霊感である。そういうわけで、知性とは幸運を手繰り寄せる能力であると僕は思っている。グッドラック。

1119

 25歳になって2日が経ちましたがとくに変わりはありません。自分が生まれて四半世紀が経ったのだと思うとちょっと変な気がする。昨日の続きを毎日やり続けていただけなのにこんなに遠くへ来てしまった。
 ところで四半世紀っていうと4と2分の1世紀っぽくて毎回もにょります。あるいは16分の1世紀。

 知性とはなにかという問いは、知性という概念の統合性が砕け散り、知性がそれらの破片の単なる集積にすぎないことが明らかになったときに解決されたことになるだろう。知性はこの宇宙のすべてを理解しうるだけの十分な能力を備えた黄金のシステムなどではない。知性はただその能力の限りにおいて宇宙を構造化し利用可能にするための道具にすぎない。金魚から見た宇宙は、金魚の能力によって理解し尽くすことの出来る程度の構造しか持たない。人間にとっての宇宙もまたそのようなものである。宇宙に境界を引いてある系を切り出したとき、その系から見た外の世界の複雑さは、その系自身の複雑さを超えることはないのだ。その系がとることの出来る状態数が、その系から見た外の世界の状態数の上限である。われわれは金魚鉢の中に生きている。
 統計学者の渡辺先生が、「自然のエントロピーと情報のエントロピーは実は同じものだった」と書いていた*1が、先のように考えればこれは当然であるように思える。自然に構造を与えているのはわれわれの状態なのだから。そして自然と情報の等価性が示されつつあるということは、われわれの知性がその限界に達しつつあることを意味するのではないかと僕はぼんやり思っている。金魚鉢はもういっぱいなのかもしれない。

 〈本質〉への接近欲求を原動力としながら〈本質〉から自由になることによって人類は前進してきたのではないか。

*1:http://watanabe-www.math.dis.titech.ac.jp/users/swatanab/ibis20171110.pdf
この資料の結論の図が人類の墓標にしか見えない

1112

 思い出すたびに記憶が脚色されてゆく気がして、昔のことを想起するのが少し躊躇われるようになった。時間とともに変容してゆくくせに「これは客観的で恒久不変な過去の記録ですよ」みたいな顔してるからエピソード記憶は気に食わない。そんなものなくていいと思う。ただ過去のイヴェントを仄めかす微かな仕草が身体に残ってくれればそれで十分です。