Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 最近日記を書かない日が多くて良くないですね。毎日少しずつでも何か書いて、覚えた新しい言葉や言回しを使ったり、考えたことをアウトプットする練習をしたりしなければなりません。少しでも賢くなるために。

 考えたこと。哲学的ゾンビの思考実験は、他者の意識の有無を原理的に知ることが出来ない、さらに言えば、私でないことこそが他者である条件としてあるわけで、そもそもたとえ話としてすら意味を持っていない。と僕は思っている。もしも似たような論法をより有効に用いようと思うならば、それは意識のない自分を考えてみるべきであろう。ところで、意識のない自分というのは僕にとっては非常にパラドキシカルである。というのも、僕にとって自分とは、僕の名前のつけられた人間のことではなく、この意識のことだからだ。自分でない自分などというものは考えられえず、したがってこの喩え話は死後の自分を論じるにも似て、空疎な絵空事に終わる。ところで、意識がないとはどういうことか。まず、本当に意識がない状態。本当にというのはどういうことかと言えば、その状態の自分は存在せず、意識を失っている僕は真の意味で僕ではないということだ。一日を終えて眠りにつくと自意識は霧散して消滅し、あくる朝に再び再構成される。あるいは、この僕とは不連続な僕が立ち現れて、僕の身体と記憶と知性を持つ、僕という名前の人間として行動を開始する。(自意識の連続と、外見的な区別を付けれらない2つの意識の問題についてはさらに考察が必要である)それとも、意識はあるのだが、それを認識できない、自己認識のレベルの低下。あるいは、自己認識はしているのだけどその間の記憶を持たない状況。などなど。僕は睡眠については後者の意識のない状態であると思うのだけど、死による意識の喪失がどちらなのかよくわからない。知性や自己認識は脳の活動の産物だろうと思うのだけども、意識そのものにそれらが本当に必要であるか分からないからだ。なぜかといえば、知性と自己認識を備えた存在は僕以外にもごまんとおれど、僕は一人しかいないことがその理由である。自他の境界はどこにあるのか、そもそも僕は人間である必要があったのか、その辺の石ころでも良かったのではないか、それとも全ての意識はどこかで繋がっていて、その単一の意識をあらゆる物の間で共有した形の独我論が正しいのだろうか、もしそれが正しいならばその意識はどのように成立しているのか。意識は構造に宿るのか、それとも物質に宿るのか。

 今日は3限から大学。最近90分間人の話を聞き続けるということがやっと出来るようになってきたので、割と勉学が捗ります。それが出来ていなかった自分が異常だったのでしょうけども、まあ自分の成長は素直に喜びましょう。2年ほどそれが遅かった気はするけども。

 6限の時間に、サークルの部室で曲を暗譜する練習をしました。連絡の手違いで今日やる曲を知らなかったので、僕にとってはただの練習になってしまったのですが。余り得意ではない(その原因はそもそも僕がその曲を好きでないことにあるのだけど)曲だったので、調度良かったのかな。
 ハミングは苦手です。自分の声の認識において、骨を伝わって聞こえる分が多くなるので、実際に自分の声がどのようになっているかわかりづらく、フィードバックをうまく得られないのです。そこまで酷くは内容だけども、やはり自分の声が聞こえない、聞こえてもざらざらしているのではやる気が下がります。そんなこと言ってもいられないのだけど。それとは逆に、昔は壊滅的だったリズム感が最近ではついてきて(僕の一部が勝手に拍子を数えてくれるようになった)、そのことは嬉しかったです。何かが出来るようになることは、新しい物を買った時のような愛しさがあります。自分の中に意図した構造を生成出来たとき、その構造が新品の文具をなでさすりたくなるのと同じように、抱きしめたくなるような愛しさを生じるのです。大事にしなくっちゃ。