Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

僕が考えられることについて

 最近非常にもやもやしていることがあるので、ここらで一度まとめておきたい。そう思って筆を執ってみたは良いものの、そのもやもやはもやもやらしくそれがいったい何なのか判然としないので、まずはそこを明らかにすることからはじめねばなるまい。
 もやもやの発端はおそらく、法則に支配されている者がその法則に気付くとはどういうことかについて考えたことだと思う。この問題は突き詰めれば、どのような種類の法則ならば帰納的に見いだせるか、ということだ。持っていた林檎を手放せば概ね地表に落っこちる。ときどき鳥に持ってゆかれたりすることもあるだろうが、条件を厳しくすれば確実さの度合いは上がるはずだ。そうして万有引力の法則が見出される。この条件を厳しくするという操作は、現在の科学の方向性としては、ミクロスコピックに考えることに対応しているのだろう。量子論については僕がなにか言うだけの知識を持たないので触れられないけれども、このように法則が見出された背景には、何かが実在するという語が成立する裏にある、人のものの見方の影響を切って捨てることは出来ないだろうとは思う。なにも僕は、電場は実在するかとかそういうことを問題にしたいのではない。それは語の使い方の問題だ。もやもやするのは、人の言葉が、いくら否定しようと修飾を重ねたところで、なにかしらは実在するということを前提にしない限り、何も記述できないのではないか、ということだ。(つまり言及するためには何か対象を必要とするということ)逆に言えば、何か記述することが出来るということは、何かの実在を仮定している。世界の部分に言葉を対応させるというのは、そういうことなのである。もちろんそれで十分でだということもあるのだろう。科学の成果を見ているとそう感じる。現象を言葉で説明出来るというのはものすごいことだ。けれども一方でこうも思うのだ。もしかすると世界には当たり前に当たり前に過ぎて、原理的に誰にも気付けないような法則があるのではないか、あるいは法則というのは本来そのようなものでなくてはならないのではないか、と。例えば世界にはX性というものがあるのだが、このX性というものは世界にあまねく存在しているので、X性がないという状態が決して考えられないということを考えてみる。僕らが色がない状態を考えられないのよ同じように。(モノクロには色がないという話とは違う。例えるなら一色色覚を想像できないことに近い)X性は自然を記述するならばそこに出て来るべき概念なのだが、それが存在しない状況を考えられないがゆえに実在を問える形式では人間の世界に現れない。ところで、何かの実在に言及できるということは、その非実在を考えることが出来るということでもある。先ほどの例えで、三色色覚を持たない可能性を述べたではないかと突っ込まれそうだが、この場合は三色色覚でない認識を想像できていないので問題ではない。AとBの間に引力が働いていない状況を思考することは可能だが、AとBがX性を持たないことを思考することは出来ない。とここまで書いてきていまさらなのだが、結局僕は、人間に考えられるものとそうでないものの境界を同語反復的に考えていただけなのだろうか。さらにもやもやしてきた。

 可能性のこと。僕はこの世界と地続きな世界として他の可能性を考えることは出来ない。よく似た世界は考えることができるが、それは決してこの世界に続くことはない。明日世界から重力が消えることを想像することは条件付きで出来るが、仮に昨日重力が消えてしまっていたならこの現在に至ることはなかっただろう。そんな想像は無意味だ。全体から一部を切り取るなんてことは出来ない。何かを変えてしまえば、それは世界全体の書き換えを迫るだろう。それ故に、可能性という語の用法には注意が必要だと僕は思う。可能でもなんでもないことについて可能性を考えている事例は多い。そうしてみると、先の実在という語は、その非実在を含意する点で空転する。本当に確実なことは、もっとどうしようもなく確実でなければならない。それこそ、そうであることにすら気づかないほどに。

 哲学者の無意味に壮大な物言いを否定する言説はよく見るし、僕自身そう感じるのだけれど、同時に僕の考えていることもその例に漏れないのだろう。僕は哲学者ですらないのでもっと非道い(あるいはマシな)可能性がある。けれども、いくら精緻に命題を積み重ねようと同じことだ。何らかの意味で正しいということがかろうじてでも可能なのは現実であり科学であり、魂だの倫理だのについてのお話はお話でしかない。言葉は道具だ。世界ではない。