Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 折れた骨が折れた形でくっついて、また折れて。繰り返して人は異形の怪物になっていく。異形の怪物であるところの僕としては工業製品がうらやましい。

 矢部嵩『魔女の子供はやってこない』は僕にとって新鮮な驚きだった。こんなふうに書いてもいいんだ、という。文中で繰り返される絵の比喩を真似るなら、この小説は、誰もが見ているありきたりな、しかし心をえぐる風景の、卓越したデフォルメである。「いつかは来る日で来ないで欲しい日、洪水を待つ他に出来ることってあるかな」ほんとにね。

 忙しい日々の合間のふと正気に戻る時間、ペンディングされていた思考たちが様々に語りだしたまに処理落ちする。そもそもそれらを「処理」してしまってよいものなのか悩む。考えて解ける問題は解けばよいが、解決よりもむしろ配置や廃棄が求められる種類の問題について、それをすることが倫理的なのかどうかは難しい問いだ。ある倫理平面上に適切に配置する限りで僕の行いは全て正当であり赦されている、と考えることはいつだって可能だが、そう考えることの倫理的是非が今度は議論の俎上に登る。なんとでも言えてしまうということはなにも言っていないのと同じだ。だから僕らは際限ないメタ化のうちに不動点を求めるけれど、それだって畢竟人工物であり、いつかは故障するだろう。修理するのは自分自身である。
 壊れたら直す、目についたところから順に。そうしてはじめとは似ても似つかぬものになっていく。生きるというのはたぶんそういうことで、増築改築リフォーム解体それらの連なり交わる点で、ときどき誰かと言葉が通じたり通じなかったりする、あるいはそう錯覚する。これはそうした種類の苦行なのだ。いつまで耐えられるかしらん。