Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0719

 退屈を友とせよ。


 駅のホームでカラスがなにか丸いものをくわえているのを見た。よく見るとそれは小型の鳥の卵のようで、どこぞの誰かの巣からかっさらってきたのだろう。じっと眺めていると、カラスはそれを柱の根本に立てかけて固定し、それから嘴で器用に穴をあけて中身を飲みはじめた。飲み終えると今度は殻を砕いてそちらもバリバリと食べる。卵を食べる手順というものが彼のなかでは定まっているようで、それがなんだか面白かった。そういえば僕が小さかったころ、母方の祖父が、冷ややっこの真ん中に小さい穴をあけ、そこに醤油を貯めて、切り崩した周囲を浸しながら食べていたのを思い出す。合理的だとえらく感心したような気がする。それはさておき、鳥という生き物はその振る舞いがつねにどことなくコミカルで好きだ。動作に「ため」があるのがいいのかもしれない。たとえば卵を食べているのが犬だったとしたら生々しくて嫌だったと思う。所作が生々しいのは地を這う生き物の宿命だろうか。


 言葉で考えるときは、それが文として完全であるようつねに気をつけていようと思った。あと、思考の停滞をジャーゴンで埋めて考えた気にならないこと。推論が形を成すのを静かに待つこと。


 数学者が行間を省きがちなのは、面倒だからというよりもむしろ、自然言語による詳説は数学のある種の性質を傷つけるからではないかと思ったりした。


 僕は統計を扱う仕事をしているので、抽象的な数値としての確率が人間の意志決定機構に与える影響というものをときどき観察する機会がある。たとえば、現状では目視で行われている工場製品の検品を、機械学習に置き換えるプロジェクト。基本的には良品/不良品データセットを人手で作成し、それを使ってモデルを訓練することになるわけだが、ここで地味に問題になるのが、 Recall や Presicion といったモデルの性能評価値が明らかな確率値として出てしまうという点だ。Recall が1ではないモデルを現場に投入するということは、間違いが起こりうるということを組織的に認めることになるわけだが、その決断がなかなか難しいようなのである。たとえその確率が極めて低いものであっても。それは僕だって同じで、たとえば一億分の一の確率で弾が出る拳銃を渡されて、それで自分の頭を撃てば賞金をやろうと言われたとして、たぶん遠慮すると思う。これらの判断の背景にあるのは、おそらく、その確率を「肌で知っている」わけではない、ということだ。僕が交通事故にあう確率を理解しつつ外を歩けるのは、「とはいえそんなに頻繁に事故るわけではない」と直感が言うからで、その確率が実際に「低い」からではない。そもそもただの数値である確率に対して低いも高いもないのだ。さらに言えば、確率は客観的なものでは決してなく、その算出にどのようなモデルを用いたかによって左右される。だからそのモデルを信用するかどうかという問題がまず発生するのであって、もちろんその信用性をさらに確率として扱うことはできるにせよ、無限の果てではなんらかの決断をするほかない。つまり結局、人間の意志決定に作用するのはあくまで「実感としての」確率なのであり、実感を抜きにした抽象的数値としての確率は、ただ人を混乱させるだけなのである。それでもなお何かを決定せねばならないとすれば、その決定は安全側に極度に寄せたものになるだろう。一億分の一のロシアンルーレットを避ける理由である。

 「抽象的な数値としての確率」が世の中に氾濫することによって、社会が「極度に安全側に寄せた」選択をしてしまうことを僕は恐れている。しかし同時に、ある個人が「極度に安全側に寄せた」選択をする自由も認められねばならないと考えている。どうすればよいのだろう。

 そういえばかなり昔に読んだ星新一のショートショートに『処刑』という話があったのをふと思い出した(題名は今調べた)。あれは、確率と生の関係について重要な洞察を提供していると思う。