Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(4)

 昨日よりは元気になったとはいえ、頭の働きが鈍っている。思考がなかなか形を成さない。こういうときは、意識的に一度頭を真空状態にしてしまうのがよいことを知っている。気圧差に導かれて、空っぽになった頭の中にぽつぽつと考えがわいてくる。これをゆっくりと凝集させていく。

 文章を読むと、その内容に思考を支配され、ただなんとなく納得させられてしまう、という事態にしばしば陥る。しかしその納得は、普段の自分の考えがその文章によって追い出されてしまったことによる幻想なのであって、我に返れば消えてしまうようなものである。これを避けるためには、文章を読みながらも、通常の自分を維持しつつ、ときに文章の言わんとするところと言葉の刃を交えねばならない。文章と切り結ぶことによってはじめて、その内容は持続性のある輪郭をもつのだ。これが「批判的に読む」という表現の意味であると僕は思う。


 第5節。短いので全文引用する。

 第1節の例を考察してみると、ひとは、おそらく、語の意味という一般的な概念が、どれほど言語の働きを煙霧で包み込み、明瞭にものごとを見ることを不可能にするか、を予感するであろう。――もしわれわれが言語という現象を、原初的なその適用法にそくして研究し、その適用例において語の目的とはたらきを明瞭に見渡すことができるのであれば、そうした煙霧は霧散する。

 言語のそのような原初的諸形態を、子供は、話すことを学ぶときに用いる。その場合、言語を教えるということは、それを説明することではなくて、訓練するということなのである。

 ウィトゲンシュタインは「意味」という表現を、われわれを哲学的混乱に導く元凶のひとつとみなしている。その理由は、僕の記憶が正しければ、これから繰り返し語られることになるだろう。

 たとえば第2節で導入された言語のはたらきについては、とくに疑問の余地はないように思われる。建築家Aの呼びかけに応じて、助手Bは材料を渡す。この営みは、現在では完全に機械化することができる。機械建築家Aの発した音声は、機械助手Bのマイクに入力され、たとえば短時間フーリエ変換により特徴量化されて分類され、対応する材料がコンベアで運ばれる。似たようなことが人間の頭の中で起こっていたとして不思議ではない(もちろん起こっていないかもしれない)。この経過の中に、混乱の生じる余地は基本的にはない、と思われる。第1節の繰り返しになるが、重要なのは、この例において言葉の「意味」は問題になっていない、ということだ。言語の目的と働きは明らかであり、それ以上でも以下でもなかった。

 第2節の言語の語彙(「台石」「石板」など)は、われわれの言語の中では様々な用法や意味を持っている。しかし、第2節の言語における用法が、これらの言語の原初的な適用例のひとつであることは認めてもよいように思われる。つまり「石板」という言葉は、このような目的で使われる場合が確かにある、ということだ。ここで「石板」の原初的形態は第2節の言語のみである、とウィトゲンシュタインが主張しているわけではないことには、注意が必要である。あくまでも、「石板」という語のある側面の原初的形態が第2節の言語なのであり、その限りでは「石板」という語のはたらきは明瞭である、というのが、ウィトゲンシュタインの述べていることである。

 つまりウィトゲンシュタインの戦略はこうである。漠然と語の意味を考えてもわれわれは混乱に導かれるだけである。そこで、その語の原初的諸形態がどのようなものであるかを調べてみよう。そうすれば混乱は霧散するはずである。

 最後に、言語の原初的形態が、子供の言語習得にさいして現れることを指摘している。言葉を知らない子供に対して、言葉を用いて言葉を教えることはできない。したがって、ここで行われるのは、説明ではなく「訓練」である、ということになる。余談だが、この辺の洞察はおそらく、小学校教師時代に培われたものであろうと思っている。彼は、子供が言葉を獲得してゆく過程を見たのだ。