Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(5)

 ここ数日の間に決めねばらならないことがいくつかあり、その決断に精神のリソースを消費してしまっていた。だいぶ時間があいてしまったが、第6節。

 言語獲得以前の子供は、言葉を理解しないので、言葉による説明を介して言葉を学ぶということはもちろんできない。だから、言語獲得の少なくとも初期段階は、「訓練」を通じて行われる。訓練にはさまざまな形態がありうる。たとえば「教える者が諸対象を指さして、子供の注意をそれらのものへ向け、それとともに何か語を発すること」は一種の訓練といえるだろう。ウィトゲンシュタインはこれを「語の直示的教示」と呼ぶ。この用語は言語獲得の訓練的性格を強調する点で「直示的定義」と対になっている。言葉の全体が与えられていない限り「定義」や「説明」は不可能なのである。この話題については『青色本』の冒頭でも考察されていた気がする。

 訓練によってなにが生じるか。第1回で僕が述べたようなことが子供の脳内で生じているのかもしれないし、まったく別のメカニズムが機能しているのかもしれない。しかしまあ、言葉と、その言葉が発される状況(その時点では《対象》はまだ与えられていないかもしれないことを指摘しておく)との間に、なんらかの連想的結びつきをつくり出している、ということは認めてよいと思われる。その結びつきとはたとえば、「子供が語を聞くと、ものの映像がその子の心に浮かび上がってくる」ということかもしれない。じっさい、僕も「猫!」という語を聞けば、頭のなかに猫のイメージが浮かんだりする。そういうことがあるので、言葉の意味と「表象」とを同一視するような傾向が、人々のうちに生じるのである。

 しかし、もし仮に言葉に表象を喚起する機能があるとして、それだけで言語の目的は果たされるのだろうか。逆に、たとえば「石板!」という叫びに応じて特定のふるまいをする者は、たとえそれを聞いて脳裏に石板を思い浮かべることがなくとも、その叫びを理解しているといえるのではないか。もちろん語によって呼び起される表象が、そうした理解の助けになっていることはあるのかもしれない。しかし表象があるだけでは、彼は石板を手渡すことはできない。叫びに応じて適切な材料を手渡していくためには、一定の教育を受ける必要があるのであって、異なる教育を受ければ、同じ直示的教示を受け、語に対し同じ表象を思い浮かべる者であっても、まったく異なった理解が生じるだろう。

 ほとんど第6節の内容を書き写してしまった。人に読まれうる場所に書いているという意識が、本文の内容を過剰に説明させてしまうようだ。しかしまあ、知らずのうちに内容を読み飛ばすということは起こりにくいはずで、これはこれでいいかもしれない。あとはもう少し、本文と対話するような内容を書いていけるといい。

 この節におけるウィトゲンシュタインの意図はおそらく、表象へと向きがちな読者の視線を、それ以外のもの、たとえば「石板!」に応じた特定のふるまいなど、へと拡げること、それによって言語の全体性を意識させることにある、と思う。或るものが或るものであるということ自体、それ以外のものとの関係があって初めて成り立つのであって、その意味では、表象と語の結びつきもまた、その全体性のなかにあってこそ意味を持つ。というとちょっと言い過ぎだろうか。

 「わたくしはロッドをレバーに結びつけて、ブレーキを修繕する。」――もちろん、そのためには、ほかの全機構が与えられていなくてはならない。それ〔との関係〕があってはじめてブレーキ・レバーはブレーキ・レバーになるのであって、その支えから切りはなされているなら、レバーですらなく、どのようなものでもありうるし、また何ものでもありえない。